
哲学の本で、妄想癖をもつ小学生の自分が救われた話
地球外生命体の宇宙船が地球に到来。研究サンプルとして"地球人"をさらっていくはずが、連れ去られたのはライオンだった。
妄想っ子の小学生のワタシが作った小説 (恥💦)。端的に言うと宇宙人から見たら人間もライオンも区別できないだろうと思ったのです。
小学校の課題で提出したものでしたが、この感性、当時理解されませんでした。そしてわたしもヒトに話すことを諦めていました。
でもね、この本にはありました。そしてジジイになった今、救われたのです。
ソシュール(1857-1913)の哲学。
言語とは区別のシステムである
足元に落ちている路傍の石。どこに落ちていても「石っころ」です。三角だろうが、丸だろうが、茶色だろうが、黒だろうが、呼び方に区別はありません。一方、犬を認識するときに「柴犬」「チワワ」「トイプードル」と名称が頭に浮かびますね。
これは区別する価値を見出しているからこそ言語(名称)があるというもの。区別する価値がなければ言語(名称)で区別する必要もない。
日本人は姉と妹を明確に区別しますが、英語圏ではmy sisterでくるめられるそうです。モヤモヤ気持ち悪いですよね。
眼の前にご飯があるとき、人によって「コシヒカリだ」、「ゆめぴりかだ」、「新米だ」と区別する人がいる一方、それらにまったく興味がなく「やっぱパンより米だわ、うめ〜」とのみ認識するひともいます。
区別する必要を感じる人に言語が生まれ、使用されるんです。区別する必要のない人にはその言語(名称)もなく、その概念の存在も無視されます。
そこなんです。
地球外生命体からしたら人間も毛むくじゃらの動物も区別しない(できない)んじゃないかと。一応頭と四本脚があって恒温動物である点も共通しているし。
区別することに価値を見出しているひとにとってはあまりに当たり前のことが、そのような認識をすることにない者にとっては区別はすこぶる困難だろうなという話。
ぷーんと飛び回る蚊にとっては、ヒトも豚も区別がないかもしれません。どちらも美味しい血。「俺は豚じゃなくて人間だ!」と蚊を説得しようとしてもむだでしょう。蚊にとっては「人間」という存在はありません。豚とひっくるめて「血の詰まった袋」と認識しているに過ぎません。
以上、小学生の私が、3十数年の経て理解者を得ることができたストーリーでした。
あとがき
思えば小学生の頃って暇でしたね。色々考え事して哲学していたんだなあって気づきました。(偉そう)
え?厨二病じゃないのって?
そうかもしれません〜
いいなと思ったら応援しよう!
