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五十からの茶の湯

 「五十歳からお茶を始めます」部長以上を対象とした研修で宣言させられた。お茶なら夫婦で歳をとっても続けられるだろう。越したマンションの和室を客間兼茶室とした。(なんちゃってですが)
 妻が茶道を始めたのは東芝に入社してから、英会話のためだった。外国人を積極的に招いているお茶の先生が近所にいらした。結婚前、私もご挨拶に伺った。だが、新居は教室から遠く、やめてしまった。
 ネットで探して門を叩いた先生は「男性は袴(はかま)をつけないと教えない」。初日は着付けであった。袴や袂(たもと)さばきは、着てみないと分からない。ちょっとした所作に色気が出る(のだそうだ)。
 毎週、夫婦で着物を着て茶道教室に通うようになった。袴に雪駄でバスに乗る。周囲の視線を気にしたが、誰も振り向かない。それならと上野を散策してみると「KIMONO!」フランス人の観光客が寄ってきてパシャパシャパシャ。(ちょっと嬉しい)
 先生に勧められ、茶会に出るようになると、それなりの着物を、最低でも夏冬用意することになる。銀座に馴染みの呉服屋ができた。妻はお母さんの遺した着物を染め直してもらった。
 初級から上級へ、覚える手順(点前)が増えていく。季節に合わせて様々な行事があり、それによって道具が変わる。道具の扱い方が違うから、バリエーションは数えられない。
 茶を始めたと聞いて母の女学校の先輩が、箱に入った茶碗をいくつもプレゼントしてくれた。特に茶道をやっていた方ではない。南京の女学校も戦前は茶道と華道が必修だったそうだ。
 陶芸教室で茶碗を作ってみた。いやあ重い。軽く薄く作るのは難しい。他にも、釜、炉、水差し、棗、棚、香合、、、凝りだしたらきりがない。練習用に一通りネットオークションで揃えた。
 茶道に関した本に目を通すようになった。私なりに理解した茶道とは、

一、炭と火

 工学博士でお茶の先生という人が書いた本に感動した。あんな少量の炭で、茶を点てる刻限までに釜の湯を沸騰させる。小さな種火をあおぐこともしない。
 釜が鳴り始めるのをゆるり待つ。いいタイミングで沸くよう、炭の大きさ、乾燥具合、配置、そして灰の形状が重要。炉中の対流で自然換気している。電気やガスと違い、途中で火加減を調整できないから、釜の微かな音も気になる。(毎回まるで実験だ)

二、健康体操

 お茶の道具を持って茶室を出入りする。釜や水差しはかなり重い。敷居で座り、挨拶して、立ち上がる。スクワットではないか。軽やかに力強くバランス良く。ふらつくと道具が落ちる持ち方なのだ。戦国時代は武将が部下に「俺はまだまだ元気だぞ」と茶席でアピールしていた。江戸時代は庶民まで普及し、ご隠居たちが毎日稽古していた。

三、安全教育

 高齢でも無理なく歩けるよう、歩き方、歩幅、足の向きなどが細かく決まっている。長時間の正座で痺れても、道具を安全に扱う工夫だ。「この茶碗、国宝ですよ」そう思って点前しろと先生は言う。「茶杓、殿拝領ですよ」竹の茶杓を誤って炉に落としたら、あっと言う間に燃えてしまう。切腹だ。「緊張して本当に炉に落とす人、いるんですから」所作、置く位置、手順、先人の工夫が点前の中にある。

四、脳トレ

 点前には無数のバリエーションがある。四季に応じて、テーマに応じて、客に応じて、毎日でも違う茶席を演出できる。
 江戸時代には五人で茶を点て飲むゲームが流行った。花月という。サイコロの代わりに札を引き、当たった人が茶を点てる。(札に花や月があるから花月)引いた札で役割が変わる。客になったり亭主になったりする。他の四人の動きも変わってくる。全員が瞬時に判断して動く。そして、最後は最初の役割に戻り、最初の位置に戻る、記憶ゲームになっている。

五、花嫁修業?

 亭主は客をもてなし、客はもてなしに感謝する。感謝を表す「礼」にもランクがある。最高位の客は天子様だ。
 客と亭主の問答も稽古の大切な一部。気の利いた問答には教養が要る。戦国時代、茶は武士の男子の一般教養だった。臨機応変の対応(気働き)も先生にうるさく言われた。女性の結婚のための修行というのは偏見。男性も、もし老人ホームで嫌われたくなければ、いまからでも。

六、即興劇!

 休暇帰国した娘を教室の見学に誘った。すると「茶席を即興劇だと考えると茶室は劇空間だ」などと言い出した。戦国時代は、殿様が来るから茶室を新築し、道具を集めた。秀吉の黄金の茶室など、まさにパフォーミングアートだ。
 千利休は秀吉から切腹を命じられる。切腹の当日、最期の茶を点てる茶杓に利休は「泪」と銘をつけた。(その茶杓は遺っていて、美術館に飾られている)
 切腹を見届けにきたのは、皮肉にも利休の弟子たちだ。それも秀吉の嫌がらせだったのだろう。弟子が「茶杓の銘は?」と訊くところ、たしかに劇的である。

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