消えゆく"自然"と砂上の"文化"
先日、通勤途中に近所にある雑木林の横を通りがかった際に、その中のヤマモミジが見事に美しく紅葉している事に気がつきました。よく雑木林を見ると、ヤマモミジは1、2本だけでは無く、背は低くヒョロっと細い幹ではあるもののある程度群生している様子です。
ヤマモミジというのは、幹線道路沿いの住宅街の片隅にある雑木林で見れるものでは無く、本来観賞用に庭木に持ち込まれる以外は山野に生えているものです。元々は住宅地では無く、私の住んでいるエリアは山野だったと推測されます。
私が今の賃貸アパートを借りて10年弱となりましたが、数年前に近くに巨大工場が建設されてから目まぐるしい程に周辺環境が開発されるようになりました。
田畑だった所は次から次へと一軒家やアパートが建設され、同じくらいあったはずの雑木林は木々があっという間に切り倒され、巨大工場の関連企業が立ち並ぶようになりました。しかし、偶然にも工事が入らなくて済んだのか、はたまた土地の所有者が頑なに工事を拒んだのか、このヤマモミジが生えている雑木林だけは、変わらずに残り続けています。本当に、住宅街・工業地帯の中に1ブロックだけ雑木林が残っているような状態です。
“木を見て森を見ず”ではありませんが、ヤマモミジの見事な発色に目を奪われつつ数日間通勤をするとある事に気がつきました。雑木林の区画の角から奥へと細い獣道が続いているのです。
かつては山野であったであろう場所が次第に開発され人の住まいや営みの場所へと変貌し、今となってはヤマモミジが生えている事にすら違和感を覚えるような雑木林が1ブロックしか残っていません。しかし、獣道が残っている事から察するに、まだここには確かに“自然”が残っていると言えるでしょう。
自然とは何でしょうか。
作物を葉や種実を食べる虫が居ます。それらを捕食する小動物が居ます。さらにそれらを食べる動物とそれらを狩る我々人間が居ます。そして最終的には我々人類は彼らの血肉や糞尿を作物の肥料として利用し肥沃な土壌を作ります。肥沃な土壌には豊かな作物が実り、虫が食べます。虫を狙う小動物が…それらを狙う獣が…それらを狙う私たちが…。つまりは自然とは無限ループの食物連鎖であると私は考えます。
西岡常一氏の著書“木に学べ”にこんな一文があります。
私の故郷は、岩手県の山奥にあります。道路は人や車より動物の往来の方が多いような場所です。生活の文化に四季や自然が取り込まれていました。春先から秋は稲作をはじめとした様々な農作物を育て、猟師だった祖父は熊や兎といった野生動物を狩ってそれを私たちは食べていました。秋の終わりはそれらの収穫の感謝を地域の山にある氏神様・土地神様へ奉納していました。私の故郷の人たちは、作物や命の収穫を神様への奉納(感謝)という文化の形で人間という生き物も食物連鎖の中に含まれているという事を理解していたのです。
人より獣の方が多い土地ですが、故郷で熊といった野生動物に住民が襲われたという話は私が知る限り聞いたことはありません。一方で『この林の奥に熊の棲家があるんだよ』とは教えられました。そして、地域の住民(猟師以外)はその森に足を踏み入れる事は決して無かったのです。しかし、熊が地域の民家の付近に出たという話があれば、祖父を始めとした地域の漁師がその森へ発砲し熊に対して警告をするという場面を幼い私は見たことがあります。
祖父や彼の猟師仲間たちも亡くなり、私の故郷も限界集落の様相となってしまいましたが、今でも山の奥へと立ち入るのは、自然を理解した人だけです。つまり、人と動物を含めた自然というのが非常に密接にあった環境ではあったものの、明確にテリトリーを線引きし、お互いに無闇にその境界線を超えないように生活をしていたのです。
人間本意の文化の形成では無く、自然と共存をした生活体系です。
ここ数年、野生動物が民家の周りに出没するようになったとニュースでよく目にするようになりました。今までは出没する事が無く、このようなニュースが無かった都市部でも出現するようになったそうです。私の住んでいる地域でもショッピングモールに熊が入ってしまったというニュースが今年ありました。
ブナの実の実り方や温暖化、専門家は様々な理由を挙げていますが一番は里山部分の開発或いは荒廃だと私は思います。
私が幼い時も、木の実の実りが少ない年はありました。しかし、山の奥に田畑を持っている方は、作物が荒らされたと言っていましたが人里まで熊が現れる事はありませんでした。それは先述した通り、自然に対して私たちが境界線を引いていたからだと思います。だからこそ、熊は境界線としてグレーな山奥の田畑を荒らすまでで済んだのでしょう。
今となってはその山奥の田畑と言うのも私の故郷でも無くなり、木の実が不作であれば人里まで下りてこなくてはならないと推測されます。現にここ2、3年の間で今まで故郷では見る事の無かった野生動物の目撃情報が上がるようになりました。さらに私の故郷の地域ではまだありませんが、他の集落では山を切り開きそこに大量の太陽光パネルを設置している部分も散見されるようになりました。余計に熊を始めとした野生動物は住処を追いやられ人里まで下りてこなくてはならいのです。そして下りた先では人間から追い立てられるというあまりに気の毒な構図が起きているのです。
これは岩手県に限った話だけではありません。高速道路を走れば遠くの山が一部分だけハゲてしまっていたり、太陽光パネルが所狭しと並べられている様子を全国的に見かけます。
自然ベースの発電システムは従来の火力発電よりエコなのは事実ですが、それが山野を切り開く理由にはなるのでしょうか?
地域に雇用を生む為に、大企業を誘致し里山や山村を巨大工場や集合住宅にするのは人間の為になるのでしょうか?
今日あなたが歩いた足で踏みつぶした虫を誰も気にせずに世界は回り続けるように、地球規模で見れば人類も"自然"を構成する小さな生き物の一つです。決して特別な生物では無いのです。一方的に"自然"を犯していい立場では無いと私は思います。
自然と共では無い、あまりに人間本位すぎる開発、そこに形成された"文化"が最終的に何をもたらすのか、私は人類のおこがましさと未来への不安を感じざるを得ません。
1ブロックの雑木林は、私たちがどうあるべきかを問いかけて来るのです。