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“ローカル”と“グローバル”な“待ち時間”

私は田舎のレストランが好きである。

 個人経営で名前こそ“ファミリーレストラン”や“ドライブイン”と銘打っているもののほぼ和食で、味も母の味を思い出すような、そういうタイプのレストランが大好きだ。

 舌馴染みという表現があるのか、あるいは適切なのかは分からないが、マニュアル化された応対や味付けののチェーン店よりも味覚的にも接客も良い意味で人間味があって居心地も良いからである。

 もう一つ、この手の田舎のレストランが好きな理由が"他の客の会話や観察が楽しい"という点である。
 こういう表現をするとやや気味が悪いが、補足をさせていただくと、この手のレストランやドライブインは地元客が多く、その多くが高齢な方が多い。従って比較的のんびりとお店でくつろぐ方が多く、バタバタとドアの開けて椅子に座り額に汗をかいて食事も漫ろなサラリーマンのように、日々の喧騒を思い出させるような客が少ない。そう言った意味でも私は休日のランチではチェーン店を避けている。

 今回のnoteはそんな田舎のレストランで私が面白いなと思った出来事である。


 私がその日の訪れた“ファミリーレストラン”は、縦長の建物で暖簾のかかった年代を感じる磨りガラスの入った引き戸を開けると、縦横に3列の座席が有るレイアウトの店構えだった。

 店に入り向かって左と中央の2列が縦並びの2人掛けテーブル席となっており、最も右のレーンが靴を脱いで上がる、4人向けの畳敷で小上がりの座敷席となっていた。その奥がカウンターを隔てて厨房となっていた。

 席に案内される前に、厨房を隔てるカウンターの右端に置かれている小さなコップと給水機で冷水を汲み、再度入口側の中央のテーブル席へと一人腰掛けた。このお食事処に行くのは1度だけでは無いのである。

 私はここの具材がよく溶けた、それでいて牛すじがホロホロに残ったカレーライスが大好きなのである。

 冷水を手に取りどこに座ろうかを考えた。左側のテーブル席は、入口側に雑談中の高齢の夫婦がおり、左レーンの真ん中の席には、これまた高齢の男性の1人客で既に2席埋まっていた。時刻は正午前であり、入店もピークの時間を間も無く迎える。 
 座敷席を一人で使うのも忍びなかったので、中央のテーブル席の入口側の椅子に座る事にした。既に何をランチに食べるかを決めていた私は
『すいませーん』
と、厨房に向かって声を掛ける。今となっては個人経営の飲食店でもボタンの呼び鈴があるものだが、ここには無い。そう言った“効率化”を排除した部分に私は人間味や温かみを感じるのである。
 間も無くこれまたご高齢の女性が注文を伺いに来た。私はカレーライスを注文した。


 私は、普段スマートフォンを持ち歩かないので食事が届くまでは、ぼんやりタイムとなる。

 私の隣に座っていたご高齢の夫婦の会話が耳に入った。
 今日も暑いといった内容だったが、気温の話で少し話の内容が拗れてしまったようで、旦那さんの方が今日は35℃だったというと、奥様が天気予報では33℃と言っていたからそこまで上がるはずが無いと意地を張っていた。結局話のオチとしては、旦那さんの言っていた気温は道中で見かけた道路脇の気温表示計の話をしていたようで、奥様も
『あの表示板はいつも気温が高く出る』
などと言い会話の着地点は落ち着いたようだった。その後は、畑の話だとか近所の方の話をしていたようだった。

 一方で私にとって左斜め向かいの左側中央席に座っていた男性は、カウンターに対して背を向ける形で座っており、四つ折りにした新聞を眺めながら手帳に何かをメモしている様子だった。

 間も無くして隣の高齢夫婦の注文した食事が届けられた。

 時ほど同じくして私の真後ろにあるお店の入口の引き戸が開く音がした。1人2人の声の量では無かったので、私は思わず振り返った。見ると大学生だろうか、齢で言えばせいぜい20代前半といった感じの男3人女3人計6人私の後ろに並んでいた。彼らの奥に見える引き戸の向こうの駐車場には初心者マークを貼った軽自動車とコンパクトカーが2台置かれている事に私は気がついた。


 ナンバープレートまでは見えなかったものの、ローカルファミリーレストランにこういった若者集団がぞろぞろと訪れるとも思えない。もっとも、例えばこの店が直近で有名人が来ていただとか、行列が出来る程の名物メニューがあれば話は別であるが、少なからず私がこのファミリーレストランを訪れた限りはそう言った情報は一切確認は出来なかった。

 恐らくは旅行か何かで、ちょうどお昼時にこのファミリーレストランの前を通りがかったのでたまたま入っただけであろうと一人私は勘繰っていた。

 店に入った若者達は、私の前側、店内の真ん中あたりで集まり、どこの席に座るという訳でも無くあたりをキョロキョロとしていた。
『空いている席へどうぞ!』
カウンターの奥から先程私の注文を受けた高齢の女性店員がやや投げやりというか怒っているというか、ぶっきらぼうな感じで叫ぶ。再び若者達は店内を見渡し、その中の太い黒縁の眼鏡を掛けた女性が座敷席を指差すと、私に対して最も遠い右側の最奥から中央までの座敷席にそれぞれ座る形となった。

 最近は席まで案内されるお店がほとんどなのだから、こう言ったスタイルの接客にこの若者集団はあまり馴染みが無いのであろう。

 話の盗み聞きは良くないが、先ほどの高齢店員の態度に中央席に座った女性2人はご立腹だったようで、他の店にしないか等と、仲間内だけに話すにしては少し大きめな声量で話をし始めた。すると、私にとって最奥の席の右レーンカウンター側の席に手持ちのバッグを置いた背の高い短髪の男性が、たまにはこういう店も悪くないだろう、みたいな事を言って場を和ませつつコップにお冷を給水機から汲み始めていた。

 そのカウンター側席には、先ほど席を指差して決めた、太い黒縁眼鏡を掛けた女性が座っていた。背の高い短髪の男性は全員にお冷を配ると、少しバツの悪そうな感じで身を縮ませている彼女の隣へと戻り腰をかけた。

 程なくして、左レーン中央の新聞を見ながら何やらメモを書いていた男性の注文した料理が配膳された。


 この手のファミリーレストランは料理が早く来るお店は少ない。“早い”“安い”から対極の存在なのだ。私がカレーライスを注文してから10分が経過したが未だに配膳される気配は無い。大体そうなるとぼんやりタイムもメニュー表を見返したり、店内の掲示物なんかを眺めたりする時間になる訳だが、それもネタ切れとなった。ラミネートのメニュー表をテーブル左のスタンドに戻して、再び他の客を見る。

 私の隣の席の高齢夫婦は食事をしつつ、相変わらず畑の話や、地域行事の話をしている。今週末は何処の草刈りをしなきゃならないだとか、それに必要な物は買っているのか等と言った具合だ。どうもこの夫婦の会話を聞いていると、どっちが本当に正確なのかは知る由も無いのだが、お互いがお互いの記憶や見た事が最も正確な情報だと思い込んでいるようで、事あるごとに論争になっている。言い合いになってこれからいよいよヒートアップしそうなタイミングで、どちらかが折れているのでギリギリのラインで、言い合いを避けていて少し面白い。

 私の左斜め向こうの手帳に何かをメモしている高齢男性は、料理が配られてからも食事よりかはメモの方に時間を費やしていて、ほとんど箸が進んでいない。時期的に温かい料理を注文するとは考えにくいが、それにしたって少し勿体無いような気もする。

 さて右側の若者達である。席に座り始めて間も無くは、この“ファミリーレストラン”の接客に気を悪くしていてヒソヒソ話をしていたが、空腹の前にはこの店の気に食わないポイントをディベートするよりも、今何を食べるかの方が重要なのであろう。程なくしてメニュー表を眺めだすと静かになった。
 全員の注文が決まると、お冷を配っていた長身短髪の男性が全員分のメニューを、高齢店員に伝えていた。

 私がnoteのネタにしようと思ったのはここから先の景色である。


 先述した通り、左側の高齢者達の食事が来るまでの待ち時間は、隣の夫婦は地元の小話一つ一つで討論になったり、もう一人は新聞の内容を手帳にメモしたりとあくまでも“個人から生活圏内程度”“ローカル”な世界の範囲を話題にしてこの店に居るのである。

 ところが、右側の若者達は、料理を注文するや否や各々がスマホを取り出して互いに会話する事は無いのである。全員が無言でスマートフォンを眺めてそれぞれがそれぞれの見たいものを閲覧している感じである。高齢者達の待ち時間が“ローカル”だとすれば、この若者達は“グローバル”な世界を利用してこの隙間時間を過ごしているのである。

 そしてちょうどこの対極的な席の合間にいる私は、彼らを眺めながらこれは興味深いと思いながらnote手帳にメモをする。席の並びも偶然なのか必然なのかこの風景は面白いなと感じた。


 どちらの時間の過ごし方が正しいとか正しくないだとかそういう答えというのは無いと思う。

 高齢夫婦にいちいち口論にならなくても良いじゃないですか?と、声をかける訳でも無いし、メモが終わらない男性に料理が冷めちゃいますよ?と、お節介を焼く訳でもない。況してや若者集団に対して、もっとお互い喋りましょうよ仲良くやりましょうと、と声を掛けるいう訳でもない。

 時間の過ごし方というのは人それぞれ違うのが当たり前なのだ。ただその対比が面白いというだけの話だったのだが、この話を掘り下げるとスマートフォンが普及する前の私は、そして皆さんはどう待ち時間を過ごしていたか思い出せるだろうか?

 私は普段、デジタルデトックスの名の下に外出時はスマートフォンを持ち歩かないようにしている。念の為に書くが、スマホ依存症の治療という訳では無い。ただそんな私でさえ、スマートフォンが普及する前の色んな“待ち時間”の過ごし方が思い出せないのである。

 手帳の男性のようにメモ帳を持ち歩くようになったのは最近である。高齢夫婦のように例え討論となろうとも誰かと会話をしたかと言われると、元々私は友達付き合いというのが希薄だったので“待ち時間毎”に会話を愉しんだというタイプでは無い。と、なると“待ち時間”には“待ち時間用の過ごし方”というのが脳内の何処かにインプットされていたはずなのだがそれが思い出せないのである。

 思い返せば、例えばイベント事や趣味でも気がつけばスマホで写真を撮りSNSに写真をアップロードするという過程が追加されていた。逆に言えばそれの無いそういった“ばえる場所”でのスマホレスの過ごし方が想像がつかないのである。

 ファミリーレストランで見た、世代における待ち時間の過ごし方の違いで、日常生活にいかに自然にスマホが組み込まれいるのかを感じた。スマホの普及で世の中が豊かになったのは間違いは無いが、一方でスマホ依存症等の社会問題も見受けられるようになった。

私はスマホ依存症では無いと思うが、そんな私でもスマホによって気付かぬうちに失った“時間の過ごし方”や“頭の中の動かし方”というのがあるんだなと感じたある日の休日の1コマであった。

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