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X(旧Twitter)の「日常垢界隈」における"パターン化された日常"への警鐘

X(旧Twitter)では個々人の趣味嗜好に沿って、ハッシュタグやらなんやらで様々な界隈(特定の趣味嗜好を持つコミュニティを〇〇界隈と呼ぶ風潮があります)が形づくられています。
で、ここでは「日常垢」という界隈にフォーカスを当てて問題提起したいと思います。

■「日常垢」とは

「日常垢」というのは読んで字の如し、自分の日常や暮らしの一部分を切り取って共有するアカウントまたはその界隈を指します。
インターネット特有のアンダーグラウンドな感じはなく、投稿内容やユーザーの傾向としてはインスタやlemon8に近いエッセンスを含んでいるのが特徴です。まあ検索して覗いてみた方が早いですね。

で、ご覧いただくと分かると思うんですが、内容としては大体以下の様に大別されており、

・カフェや飲食店などの映え写真
・自撮り(可愛い/カッコいい/センスある)
・丁寧な暮らしへのフォーカス(家具・インテリア)
・風景や建物
・服や小物

このフォーマットに文章を加えて、センス良く丁寧で調和のとれた投稿が数多く確認できると思います。
一旦、これを今回の記事が示す「日常垢」の定義とします。で、こういった投稿をしたり覗いたりと積極的に関わっているユーザーを指して「日常垢界隈」と呼びます。

上で何かちょっと嫌味な書き方をしてますけど、僕も投稿はしないながらも界隈を覗いてはいますし、大好きなんですよ。
というのも、普通にセンスを参考にしたり、買い物や外出のヒントにしたり。もっとスケールを広げると、丁寧な暮らしを例え人の真似事であっても実践していけば、やがてそれが自分の生き方に結びついてより良い生活に繋がるからみたいなこと考えてたり。まあなんかお洒落でちょっと憧れるじゃないですかシンプルに。そこは素直に受け止めてます。

■なあ、「日常」ってなんだったっけ

で、ここからが本題です。そもそも「日常」って「常日頃、普段のありふれた事柄や出来事」を指す言葉だと思うんですけど、それを踏まえてもう一度界隈を覗いてみると、ちょっと違和感ないでしょうか?
日常という個々人に委ねられた幾億千万通りあるはずの行住坐臥の振る舞いのありようが「テンプレートあるいはパターン化」されているように感じないでしょうか?

……センスのあるアカウントってやっぱり凄いんですよ。キラキラとも絶妙に違う。港区女子みたいなイヤらしい華美なものでなく、自然本性的な品や育ちの良さを感じるように映っていて、なぞって真似したくなるんですよこれがほんとに。インスタとか結構似たようなフォーマットでやっちゃってます(何なら"やりにいってる"とも言える)しね僕も。

しかしそういった日常垢は、往々にして同じようなアカウントとだけ相互フォロー関係になりがちです。これによって「日常垢界隈」でのみ形づくられた丁寧な暮らしやセンスのある生き方の方向性がより一層狭まり、日常垢界隈におけるヒエラルキーは、決まった枠組みから外れたセンスのない「日常」の在り方を受け入れないように無視していく、という流れが発生します。「パターン化された日常のエコーチェンバー化」と呼んでも差し支えないでしょう。

より良い人間に見られたい、より良い生き方をしていると思われたい、というのはもう承認欲求の根っこみたいなもので仕方ないんですけど、界隈云々でなく全ての人間の共通認識なので、日常垢界隈の参加者はこぞって、この日常のテンプレートをより一層なぞるように進展していき、そうでないものは受け入れられなくなっていく、という仕組みです。

そういう投稿をやめてくれとも、勧めたりしないでくれ、とも一切思わないです。……でも本当の日常ってそういうことじゃないと思うんですよ。

■「日常」は全ての人に開かれている必要がある

日常というのは、全ての人の、全ての普段の生き方を指していると思います。
であるならば、洗ってない皿が溜まったシンクとか、カビたパンとか(俺だけか?)、散らかったテーブルとか、掃除機かける前の床とか、すっぴんとか、自分で水出ししたお茶とか、シワのついたTシャツとか、もうちょっと人に見せられないような部分こそがむしろ日常の本質だと思うんです。人間ってもうちょっと雑で適当な生き物だったと記憶しているんです。

適当な炒め物をフライパンで直で食ってるおじさんのアカウントとか、風呂キャンセルしてギットギトになった奴とか、足の踏み場が分からない汚部屋とか、そういうアカウントもハッシュタグさえついていれば受け入れたりフォローしたりするのが「日常垢」としての筋だと考える訳ですよ僕は。

けれどもしかし「日常」という体裁をとって、自分やその周囲のものやことが敢えて綺麗に丁寧に映る様に、汚い部分はまるで存在しないかのように、不自然にすりかえたものだけを「日常」と呼んでいるのなら、そのマインドは間違っているので持たないでいて欲しい、と考える訳です。
それは「丁寧な暮らし」であって、そのハッシュタグをつければいいのであって、日常ではないです。

今、日常垢界隈のトレンドは、排他的になっています。人の全ての暮らしを受け入れて全ての清濁を併せて呑み込んでいく胆力と多様性(この言葉大分便利で軽い言葉になったなほんとに)が求められていると最近感じています。もう一度日常とはなにか、日常垢とは何のために存在しているのか、という部分に立ち返ってみるべきだと考えています。

みんながみんなこの考えを既に持っているのだとしたらただの僕の余計なお節介で片付くので、そういうことにしておきましょうか。

ついでにこの記事を書くという作業も自分の日常なのでリスペクトでタグつけときます。おわり
#日常垢





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