メディア・イノベーション時代の「落とし穴」
「慶安の御触書」という根拠薄弱な存在が「信じられてしまう」ことと、メディアのイノベーションについて考えてみました。
「慶安の御触書」は実在しない
「慶安の触書は出されたか」という、非常におもしろし小冊子がある。
「慶安の御触書」
日本史のお勉強のとき、江戸幕府が農民の生活統制=年貢確保のために出した「お節介法令」(いわば江戸時代の軽犯罪法)というイメージがある。
衝撃的だが、この「慶安の御触書」というものは、実は「幕府法令」として実在したものではなくて、原型が別にあり、それが後世(19世紀第2四半期以降)になって、慶安時代(1649年)に幕府によって全国に発令されたものとして「法令集」などに掲載され、多くの藩で採用されたものだそうだ。そもそも、慶安時代に発布された触書そのものというのは、全く発見されておらず、明治期からその実在性については疑念を抱いていた学者もいたというのだから驚きである。
最近の歴史の教科書では、この存在自体に言及しなかったり、実在性が揺らいでいることが注記されるようになっている(まるで、「伝 源頼朝 像」状態)。
問題は、なぜ後世の「情報操作」によって、有りもしない幕府法令の存在が広く信じられるようになったのかということだ。
本書では、松平定信が試行的に「法令を町方に印刷物で配布」するという新しい情報伝達ルートを開拓(情報メディアのイノベーション)したことをその背景要因と上げている。時代背景に「天保の飢饉」などの影響で、農村が荒廃しており、その立て直し方策の一貫で、「慶安の御触書」と称する法令が町方・農村に印刷物として配布された結果、全国規模で(その真偽も疑われずに)普及したという仮説である。
メディアへの不慣れ=リテラシーの低さ
この仮説の妥当性はともかく、情報が新しいメディアで伝達され始める時、その情報の信憑性というか、情報提供者による操作可能性に関する、受容者側のメディア・リテラシーが追いついていない。そうのような状況の下では、信憑性の低い情報や操作されている可能性の高い情報が急激に拡散するという視点は、現代においてもネットメディアで生じている事象の分析視角として有効だと思う。
いずれにせよ、この「慶安の触書」問題は、情報メディアにイノベーションが生じた折りに、そのメディア、そしてそのメディアによって拡散した情報を後世に受領する人々が陥る「落とし穴」、陥穽を良く示している。
情報メディアを巡る問題は、江戸時代でも現代も似たり寄ったりということ。
江戸時代は情報「大公開」の時代
もう一点、この小冊子との関連でおもしろいと思うのは、つくづく江戸時代というのは、それ以前との対比で、情報「大公開」時代だったのだという点。
中世(平安末期から室町時代にかけて)は、情報の多くは、京都の公家及び寺社内に保存されているものであり、それぞれの「家」に伝承する日記や寺社内の記録として門外不出のものであった。それを最も独占していたのが、天皇家だというのが、天皇という仕組みが戦国時代を生き延びた要因だとする学説もある(本郷「天皇はなぜ生き残ったか」)。
また、法律なんてものも、「ポケット六法」なんて手軽に法令を閲覧するものはなかった(いまでは、ネットで検索かもしれないが)ので、訴状沙汰の時には、自分の権利主張を根拠づける法律を自分で裁きの場で主張しなければならなかったらしい。だから、法律の存在の真偽が争われるという現代の裁判では信じられないことが、訴訟古文書として残っている(勿論、国際裁判の場合には、現代でもそういうことが起きるが・・)。
中世では、情報が囲い込まれ、それが権威と権力の源泉であった。
そもそも一般人は、そういう「情報」があるということ自体を知らず、仮に開示される場合にも、それは、特別な時に特別に開示されるのが当然という時代だったのだろう。
それが、大きく転換したのが、江戸時代。
「法令を町方に印刷物で配布」という情報伝達のイノベーションも、当時としては画期的だったのだろう。そういう情報「大公開」の時代であったから、「慶安の触書」というフェイクも一気に定着したのだろう。
「慶安の触書」の存在というのは、メディアの転換点における、珍奇な事象として、とても興味深いものだ。