お初天神 夏祭りの思い出。
大阪市北区の曽根崎天神(お初天神:人形浄瑠璃「曽根崎心中」の舞台)
正式名称は『露天神社』。
私が天満(大阪天満宮周辺)に住んでいた短い間のことで、稼業の取引先であったところの奥さんに、「お祭り出よ!」と言われてあれよあれよという間にお囃子に参加することになった。
田舎に住むようになったいまはわかるが、神事である祭りにはふつう地元のこどもや住人であるおとな、自治会費を払っていて土地を守っている者たちが神の恩恵に対して奉仕するために参加するものだ。
地の者ではなく、住民ではない、しかも成人の私がお囃子に入るのは異例だったと思う。
まず篠笛を渡されて、たしか譜面もなかった。
旦那さん(取引先)が吹くのを見て音階を聞いてとにかく吹いて憶えた。
けっこう厳しく指導されて、部活を思い出した。
私は打楽器経験者だったが管楽器ははじめてだった。
学生だったので比較的時間はあった。
毎日篠笛を持って歩いて、キャンパス内でも講義後に練習していると、吹奏楽部と間違われて指揮者に「合奏はじまるから」と声をかけられて振り返ったら篠笛だった(フルートと思われてた)、ということもあった。
耳コピでストラヴィンスキーの『火の鳥』を吹いてたから。
なんで吹けたのかよくわからん。
中学生の頃はフルートに憧れていたけど、歯列矯正をしていたから顧問が私を打楽器に指定した。
才能あったから(?)打楽器でよかった。
そんな感じでおじさん(旦那さん)に認めてもらえるようになるまで付け焼き刃ながらかなり自主練習した。
本番までにはなんとか頷いてもらえた。
そこからがかなり大変だった。
祭りの当日は提灯のある御宅や会社の前で踊る獅子舞の後ろについて走って回るのだが、立って吹くだけでなく移動しながらも吹くので肺活量が足りてなかった。
自主練は静止していたので、こんなに動きながら吹くのか……聞いてねぇって感じだった。しんどかった。吹いてるけど音が小さかったと思う。
周りは指導者以外みんなこどもだったけど、私は小柄で貫録がなかったから成人が紛れ込んでるとは誰も気づかなかっただろう。
ずっと地元で参加しているこどもにはかなわなかった。
ほかに知り合いもいないけれど、熱狂の渦のなかは楽しかった。
私はほとんど借家住まいで、地元の旧い行事などに縁がなかった。
土地は住んでいるだけの場所だった。
このときにはじめて、物語ではなく現実に、地元を愛して守っているひとたちを間近で見た。
お囃子を指導してくれたかつてのこどもだったお兄さんやお姉さんたちの様子はいまもSNSで拝見する。
私は余所者で、友だちではなく、なんでもない流れ者だから誰の記憶にも残っていないと思う。
天満もすぐに去ったから。
でも、私はみんなを憶えている。
あのときカップルだったふたりは結婚して、またこどもを連れてお祭りに参加している。
最後に舞台で手を龍の形にしていつまでもおどけて踊りをやめなかったひとたち。
時は流れて、神社のだんじり太鼓に参加する息子を一日中スマホを構えて追い回す母になった。
自分は一生転々と生きて行くのだろうと思っていたが、意外に定住している。
人生とはわからないものだ。
宗教を意識していないような日本人だがおみくじで一喜一憂するし、祭りには貢献するし、特に所縁もなかった寺の広報活動なんかも参加しちゃったりしている。
帰属することにどこかで反抗してちゃらんぽらんに生きようとしてたのに失敗して(笑)
けっきょく家族とか占いやなにかに縋ってると思う。
それでかっこわるくても別にいい。
きれいな言い方をすると、もらったものを返す行為
感謝
をするのが気持ちよくなった、それを知っちゃったってことだと思ってる。
いままでダメだった、拗ねていた自分を守ってくれた先生や勤務先のひとたち。
祖先とか氏神たち。
仏はなにをしてくれたかわからないけど、いま飯を喰えてるということは誰かがずっと守ってくれてる訳で。
それに直接じゃなくても返していくのが参拝だったり悩んでるひとの話しを聞いたり近所の清掃だったりする。
若くて元気だと気づけないのよね。
最悪な目に遭って助かってからじゃないとわからないのよ(笑)
また露天神社に参拝しよう。
覗いてくれたあなた、ありがとう。
不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。
また私の12ハウスに遊びにきてくださいね。