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前回までで、主体的で対話的で深い学びという言葉から考えられる、7つの学習の姿について書いていきました。今日は、いよいよ、主体的で対話的で深い学びのある授業とはどのような授業であるのかを明らかにしていきたいと思います 前回までの②~⑧授業の様子をまとめると ②主体的で対話的だけど、浅い学び →深まりきらずに堂々巡り ③主体的であるが対話的でなく深い学び →講演会の学び ④主体的であるが対話的でなく浅い学び →活動そのものが目的となった状態 ⑤主体的でなく対話的で
前回の記事では学びの形態のうちの三つについて考えました。今日の記事はその続きになります。 ⑦主体的でなく対話的でないが深い学び 主体性はなく、対話もないが学びは深い。中々に創造しにくいかもしれません。これは、所謂、私たちが受けてきた高校の授業や塾の授業と言えるのではないでしょうか。講義形式の授業の一般的な様子と言ってもよいのかもしれません。もちろん、講義形式の授業であっても、主体性を持つかどうかはその人次第なので、興味を持って聞いているのであれば、主体的であるが対話的で
昨日の記事では8通り考えられる、学びの形態のうちの二つについて考えました。今日の記事はその続きになります。 ④主体的であるが対話的でなく浅い学び 主体性はあるけれども対話がなく、学びも浅いものとなっている状態。道徳科の授業に当てはめてみると、役割演技をすることが目的となってしまった授業ではないでしょうか。役割演技をしたけれど、その演技を基にした話し合いがなく、「〜さんは、頑張って演技をしていた」「〜さんの声が大きかった」「良かった」といった言葉がけのみがあって話し合いが
新しい学習指導要領では、主体的で、対話的で、深い学びを通して子どもたちに力をつけさせていくことが明記されました。 今までは、3つのうちの深い学びの部分のみが示されていて、方法は現場に任せるという形をとっていましたが、今回は深い学びに至るまでの方法も大切だということが示されたわけです。 さて、この主体的で対話的で深い学びが道徳科ではどのように実現されていくのかが様々な研究会や附属小学校で研究されているわけです。 今日は、僕なりの考えを書いてみたいと思います。 まず、単純
道徳科は何気に発問の研究が良くされている教科です。一時間一本勝負という処が、ここぞという発問を生み出す要素になっているのかもしれません。 今日は道徳でよく出てくる発問について紹介します。 道徳での発問は主に4つです。 ①中心発問 ②基本発問 ③補助発問 ④切り返しの発問 それぞれについて説明します。 ①中心発問 道徳科の授業の中で最も大切な発問です。他の全ての発問はこの中心発問に集約されていき、それを補うように配置されていなければなりません。この発問が面白
今日は学級経営と道徳教育の関係について書いていきます。以前のnoteでも書きましたが、道徳教育は学校教育全体を通して行われるものであり、道徳科の授業の中だけで完結するものではありません。(じゃあ、道徳科の役割は?というかたはこちらへどうぞ。) そして、日々の活動の基盤となる学級経営も道徳教育に大きな影響を与えています。 日々の学級は道徳的実践の格好の練習の場と言ってもよいでしょう。学級を作っていく時には教師主導のもと、学級のルールや雰囲気が作られていきます。共同的な学習を
今日は道徳読みという授業方法についてお話します。 道徳読みは横山験也さんが考案した、道徳の教科書を使った新しい授業方法です。授業の流れはこんな感じになります。(ちなみに、私はこの形での授業はしたことがありません。ですので、これから書くことは、全て印象であるという点に留意ください。) ①普通に読む ②道徳探し、道徳見つけ ③発表する ④通知表を付ける ⑤省みる という流れで進んでいきます。どの教材であっても物語文系の教材ならば、この方法で進めていくことができるので
以前、つぶやいた専科の話。今日はこれについて考えていきます。 小学校は基本的に学級担任制をとっています。(筑波は専科制ですが・・・かなりの例外です。) ですので、基本的に担任が全ての教科を自分で教えます。 とはいえ、高学年になると芸術系の科目や、準備の必要な理科等では専門的な知識や技能が必要になってきます。また、高学年の先生は授業時間も多く負担が大きいのです。 そこで、音楽や理科等はそれを教える専門の先生が入ることで担任の負担を軽減することが出来ます。また、専科の先生
岡山大附属小学校の個人研究発表会に参加してきました。土日に公開授業をしてくれる小学校は本当にありがたいです。平日の附属小学校の研究発表となると、どうしても一日出張になってしまいますから、自習時間を5~6時間も作ってしまうことになりますからね。 さて、岡山大附属の尾崎先生は結構珍しい、道徳の専科の先生です。専科と言えば筑波大学の加藤先生が有名ですが、研究校である附属小学校であれば、専科の先生はこれから増えてくるのかもしれません。 さて、さて、今日は岡山で見たことも含めて、3
明治図書の2019年9月号「道徳教育」で「どう考える!?道徳授業づくりの5大論争という特集をしていました。道徳を専門にしている(と自分は思っている。)私はもう、興味津々です。 ちなみに論点はこんな感じ。 ・1時間1内容項目の授業形態を、どの程度重視すべきか ・授業のテーマ(ねらい)は、子どもに初めから提示すべきか、否か ・教科書と自作教材の活用は、35時間でどのようなバランスがよいのか ・道徳授業で実際の解決策を考えてよいのか、NGか ・道徳授業で体験的な学習をメ
昨日、道徳の五大論争について書きました。(まだ、ご覧になっていない方はそちらをお読みください。) 今日は、それに対して、私の意見を書いていこうと思います。(相変わらずガバガバです。) 前の記事でも述べた通り、あくまでも方法論に関する論争であるため、最善解は目的によって変わります。 その上で、私はこう思うということを書いていくつもりです。 私の結論は、一時間で扱う内容項目は一項目であるべき、ただし、扱った価値をベースに他の価値観について語るのは認めるべき。 まず、1時
五大論争の二つ目の題について、僕の考えを書いていこうと思います。 前回の記事でも述べた通り、あくまでも方法論に関する論争であるため、最善解は目的によって変わります。 その上で、私はこう思うということを書いていくつもりです。 授業のねらいを子どもに提示すべきかという問いに関しての僕の答えはNOです。 よく、子どもたちが、「先生はこういう答えを言ってほしいんだな~」という忖度をさせないために、めあてを提示しないという意見を聞くことがありますが、そのような理由ではありません
論争の三つ目の論点について僕の考えを述べていきたいと思います。 僕の考えでは、実際の解決策を考えても良いと思います。ただし、(毎度のことですが・・・)道徳的価値について深く考えた後ならばという条件つきです。 まず、ただ道徳的問題の解決策のみを考える授業の場合について考えます。この場合、どうするべきかということに焦点が当てられます。つまり、行動面に着目して解決策を考えていくわけです。行動しなければ解決には至らないので、当然と言えば当然ですが・・・ その際の行動の動機という
今日はこのタイトルの論題について書いていきます。 前回の記事でも述べた通り、あくまでも方法論に関する論争であるため、最善解は目的によって変わります。 私の考えでは、体験的な学習にしてもよい。ただし、きっちりとしたねらいのもとでふり返りや発問がされるのであれば。というものです。 体験的な学習といったときに勘違いしてはならないのは、悪や不快を体験させてはならないということです。例えば、いじめている側といじめられている側にわかれ、役割演技等を行う等をすれば、いじめを助長するこ