【「死」とは】 『リーディングシアターGOTT 神』
最愛の妻を亡くし、自分の生きる意味を失って、自分のかかりつけの医師(しかも眼科医!)に致死薬を処方して欲しいと頼む78歳の建築家の老人。
彼は、肉体的には至って健康。だが生きる気力を失い、息子たちにも安楽死を求めることを伝え、その説得に成功している。
彼の住むドイツの連邦憲法裁判所は、彼の求める権利を保障する、という判決を下している。
だが、このような人の「死ぬ」権利について、全ての議論が尽くされたとは言えない。
よって、この問題を議論するために、法学の参考人、医学の参考人、神学の参考人が招聘され、公開議論が行われることとなる。
この舞台は、その公開議論の場であり、観客はその議論の参加者である。よって、最後に投票をすることができる。
このような人が「自死」を選んでも良いことに、賛成か、反対か、だ。
私は、賛成に票を投じた。「死」が「生きること」の一つのステップだと考えているからだ。「生きること」と「死ぬこと」が同義なら、生きる権利と死ぬ権利は表裏一体と捉えることができる。
そもそも「自殺」ではないことも言葉遊び以上の意味を持つ。
もちろん、傷ついた人、精神的に助けが必要な人に寄り添うことが大切なことは分かっているし、社会としてもそうあるべきだと思う。だが、それで全ての人が救われるのかと言ったら、そうではないようにも感じる。
原作がドイツの作品であるが故に、「宗教」議論にもウェイトが置かれている。宗派は違うけれど、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」のラストでソーニャが語った「やがて定めの時がきたら、素直に死んでいきましょう… そしてあの世へついたら、残らず話すの。どれだけ惨めだったか」というセリフを思い出した。
死に関する采配ができるのが神だけだとしたら、人は苦しくても生きていかねばならない。でも、人は苦しむために生きているのか?生まれてきたのか?
それと同じ質問がビーグラー弁護士から提示された時、主人公の元建築家ゲルトナーと、冒頭の問いを建てられた医師会の代表シュペアリングが、反応をしておられた。そして、医師会のシュペアリングは、投票の結果を聞くために戻ってくることは無かった。
もちろん、誰彼構わず、死を臨む人に死を選ぶ権利を与えていいわけではない。それは、下手したら幇助殺人になりかねない。劇中でもまさにそのことが議論されていた。それは分かる。でも、病に冒され、苦しみながら生きねばならないことを、本人が望まなかった場合、その人に「それでも生きていて欲しい」と願うのは、周りの傲慢さではないのか。
極論かも知れないけれど、戦争に行くという行為は、「死」を肯定している行為ではないのか。だとしたら、戦争の際の「人殺し」の定義が揺らぐのと同じで、「死」に対する姿勢も、都合の良し悪しで「良い」「悪い」と揺らいでしまうことはないのか。
私が参加した回は、反対が賛成を40票ちょっと、上回っていた。パーセンテージも言っていたはずなんだけど、忘れてしまった。前日は、賛成多数だったらしい。
リーディング上演としてはとても情報量が多く、しかも「宗教」というやや日本には馴染みが薄めな論点が入るので、消化しきれなかった部分もある。参加している時の精神状態によっても、受け取る部分が変わるだろう。
参加できて、よかった。私はきっと、これからも考える。
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