【お芝居】 劇団イキウメ 「外の道」
私たちはみんな、無から生まれる
「ここ」にいる前の記憶を持っている人もいるという。
でも、私にはない。
私は、気づいたら「ここ」にいた。当たり前のように、自分のいる「ここ」がお家で、色んなお世話をしてくれる優しい女の人を、「お母さん」だと信じた。
資料とか記録とか、そういうものとは関係なく。
でも、資料や記録があることで、人は安心する。反論しようにも、「だって記録ではこうなってますから」と言われたら、ぐうの音も出ない。
この子は私の子供じゃないとどんなに母が主張したところで、戸籍に「子供」と入っていたら、みな、そちらを信じてしまう。誰も取り合ってはくれやしない。
私と記録とどちらを信じるの
そう言われて、「あなたを信じる」と言える人がどれだけいるだろう。
意識とは対象がなければ存在できないのでしょう?
言葉も、記録も「仕組み」なのだ。
では、対象が存在しない「無」では、言葉や記録はおろか、意識さえも存在しえないのか?
意識だけの存在が、形を持つには、どうしたらいいのか。
君は見えないんじゃない。「無」が見えるんだ。
例えば、想像する。意識だけの無形の存在が何かを想像したら、「それ」は「そこ」に立ち現れる。階段であれ、手すりであれ、高層ビルであれ。
そして、対象が現れた瞬間、意識は、有形になる。目に見えるようになる。仕組みが、生まれる。
では、五感って何?自然とは、仕組みの外のもの?それとも中?
五感を言葉にした瞬間、それは仕組みの中のものになってしまうの?
色んな考えが、ぐるぐるする。
でも、私の目の前に、あなたがいる。それは信じられる。
そしてもし、我々がみな「無」から生まれるのなら、また作り出せばいい。
どうせなら、もっと美しいものを
そして光が生まれる。
「見える」人、「想像できる」人、「作る」人。
彼らは楽園を追放される者なのか、それとも楽園を作る者なのか。
「無」は「夢」にも通じる。第六感の「六」にも通じる。
色んなキーワードがイメージと共にどんどん溢れ出して、五感が騒がしい。
考える舞台ではない。
感じる舞台だ。
そしてそこで自分が感じたことを、信じることだ。
6月に劇場で体感できなかったことが悔やまれる。でも、見られて良かった。
照明も、音楽も、全てが美しくて、少し怖い。
配信は26日まで。
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2182344
真っ暗なお部屋で、イヤフォンで、なんならパソコン(またはテレビ)と自分を暗幕か何かで覆って見てほしい。
できる限りの「無」の世界を作って見て欲しい。
明日も良い日に。
この記事が参加している募集
言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。