「コトバ」が先か、「思い」が先か
自分が感じている、実態のない「思い」をどう表現すれば良いだろう。
例えば、相手のことを考えている時だけに潮のように押し寄せる温かい気持ち。この思いに「愛」という名が付いたのは、いつ頃のことなのだろう。
「思い」に対して「コトバ」を作ってしまうと、その思いに実態ができる。
だが、実態ができたからこそ、その実態に逆に縛られてしまうこともある。
「愛」という名付け故に縛られてしまうことのなんと多いことか。
マサイ族には「腰痛」に相当するコトバが無いという。
身体の使い方や生活様式の違いから、そもそも腰痛が無いこともあるだろうが、「腰痛」というコトバが無いから「腰痛」が無いとも言える。
「腰痛」というコトバがあるから、我々は、あの背中のある特定の位置に表出する「痛み」を「腰痛」と伝えることができ、それを敵視することができる。そしてそれに囚われてしまうのだ。
ちなみに、英語でも日本語で言うところの「腰痛」に合う一言フレーズはない。「背中」になってしまう。
「腰痛」という概念に囚われるのは、その言語が存在するところに限られる可能性がある。
だとしたら、ブータンには「羨ましい」に相当するコトバがないのではないか。
そこから派生する「妬み」「嫉み」も同様だ。
「嫉妬」というコトバが無いから、そのような感情が存在しない。ブータンのアダムは「嫉妬」というリンゴを食していないのだ。
逆のようだけれど、人は現存する「コトバ」にことのほか依存する。
無意識に、「コトバ」という枠組みに自らを進んではめていく。
だからこそ、日々どんな「コトバ」を発するかが大事なのだ。
...だから、ね、私。
今後、目の前にある資料に対して
「マジ意味分かんない」
とか言っちゃダメ、絶対。
明日も良い日に。
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