演劇集団円 「ヴェニスの商人」
人間は、自分とは異なる信条を持つ者に、こうも残酷になりえるのか。
キリスト教こそが正義となれば、異教徒に対して唾を吐こうが暴言吐こうが、誰も意にもとめない。たとえそれが、イエスと同じ人種であろうとも。
その異教徒が法に則った裁きを求めれば、「キリスト教」という正義に仇成すにっくき輩として、キリスト教徒の全員が牙をむく。
そもそも、シャイロックがあれだけ頑なになったのは、誰のせいか。彼を仲間外れにしたのは一体どちらか。アントーニオの差別的扱いさえなければ、街の必要悪的な「気に食わない高利貸し」程度だったかも知れないのだ。
だいたいバサーニオなんて、自分の非才のせいで借金こさえた恋に盲目なダメダメ高慢ちき野郎じゃん。友人だからとお金を借りてあげるのはいいけれど、高利貸しから借りるなら、その高利を受けいれることも要検討じゃないかしら。自分が金利を取らないからってそれを相手に押し付けるのはどうなのよ。んで、無利子の代わりに人肉をってなったんだから、せめてそれを返せる算段くらいつけとけよ。まったくもう。
シャイロックの意固地をさらに固めたのは、娘を「キリスト教徒ら」に誘拐されたからだしさ。
結局シャイロックは、財産を失い、娘も失い、希望も失った挙句に、十字架を振りかざし、自らの正義の絶対を信じて疑わないキリスト教徒らの手により、宗教という精神の拠り所まで失った。
品を変え形を変え、こういった人間の姿は今も垣間見える。いや、垣間見えるどころか、堂々と姿を現していたりする。名前ではなく「ユダヤ」「ユダヤ」と連呼されるのを聞いているだけで、本当に辛い。
人間の業って、結局全然変わらないのか。
シェークスピアの時代かくやってくらい、ほぼ空舞台の2時間半。緞帳もない。照明も最低限。その中で、ラストの十字架の下で無表情に執り行われる洗礼の水。
「水に流す」心情は、東洋的な気がするけれど、あの水は希望の一切を魂から流してしまう水だった。
その水から上がったシャイロックのピタピタという濡れた足音に、涙すら枯れた絶望の音がした。
でも、さらに思う。これだけ嫌われる行いを、シャイロック含めたユダヤの人々がこれまでずっと繰り返してきたのだとしたら。その高利のせいで、財産の全てを失い、路頭に迷った人がいたのだとしたら。金利を返せずに貧困にあえぐあまり、ただ一切れのパンを盗み、その結果何十年も「法の裁き」を受けるような人々が余りにも多く生み出されたのだとしたら。彼らから問答無用で搾り取ったお金で、シャイロックは富をなしたのだとしたら。そして彼らを救う為、無利子での資金援助をアントーニオの父やら祖父やらが始めたのだとしたら。
いつだって業はぐるぐる回る。その瞬間を切り取っただけでは、何も決めつけられはしない。切り取った瞬間に感じた正義は、長い長い年月というスパンで見たら、逆転するのかもしれない。
シェークスピアは大好きだが、この演目は、やっぱりあまり好きになれない。でも、それは、人がどうにも逃れられない業の深さをこれでもか!とばかりにえぐり取っているからかも知れない。
普遍的な、人間が陥りうる闇の醜さを。