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算命学余話 #U101「原因はある、知らないだけ」/バックナンバー

 わが国の政治を運営している与党自民党の活動費の内訳は、政党助成金のほか団体からの政治献金が大きい。その大口筆頭は医療界なので、医療団体にとって都合の悪い政策は取らないし、都合の悪い報道も抑制される、というのは想像に難くない。内海聡医師が糾弾するのは、そうした政治と医療の癒着の陰で国民が余計な医療費を搾り取られているのみならず、もともとあった健康を曲がった医療によって阻害され、苦しんで死ななければならないという現状である。
 私は子供の頃から医者が嫌いだったが、それは治療して治るかどうか判らなくとも料金を請求するからだ。治ったのが確認できてから請求するなら医者を信じてもよかったのだが、治らなくてもカネだけは先取りする医者が多くて、ハナから詐欺を見る目で見てしまうのだ。現代に赤ひげはいない。医学部に行く学生は、人助けという高潔な目標を掲げながら、実際には医者になるまでに支払った高額な学費などの元手を手早く回収することに関心が高い。治療よりも稼ぎが大事な医師らが政治と癒着するのも当然である。

 ジャーナリストの船越俊介氏は、小保方晴子氏のSTAP細胞の正体がリンパ球であるとし、その存在を肯定している。リンパ球は人間なら誰でも体に備えているもので、これが本当に万能薬になるとしたら、利権も何もなくなるので製薬業界は壊滅し、医者もいらなくなる。そうなっては困る国内外の医療界が小保方氏を総力を挙げて潰しにかかったのだ、と船越氏は主張している。私は専門知識がないので真偽のほどは判らないが、医療界の政治癒着や医療者のモラル、有史以来最も医療が発達している時代だというのに病人だらけ、薬漬けだらけの現状を総合判断するに、船越氏らの主張に分があるように思われてならない。自分の頭で考えると、現代医療の効用を鵜呑みにはできなくなるのである。

 算命学余話は算命学の思想や技法を紹介する読み物ですが、他の算命学本と違うのは、「技法をそのまま鵜呑みにするな」と口を酸っぱくして度々主張しているところです。なぜかというと、算命学は理屈を積み上げて出来上がった思想体系であり、その理解のためには積み上がった理屈を一つ一つ納得していく方が丸暗記するより効率的だし、何より理屈を知らずに他人様の宿命を鑑定して助言を与える行為が危険だからです。
 理屈を知らずに丸暗記した人が鑑定した場合、鑑定結果が当人の実情と合致していないと、なぜ合致しないのか原因を突きとめられません。また仮に理屈が判っていて鑑定しても、やはり実情と合致しないことはままあるのですが、こうした場合でも、鑑定の目的は依頼人の自然な状態(=宿命に相応しい状態)を取り戻すことですから、技法に囚われていては本来の目的を見失いがちになります。
 天中殺だからこうだとか、旺気刑があるからこうだとか、推逆局だからこうだとか、そういった技法上の型はあくまで目安であり、絶対ではありません。型は誰でも3つ4つは宿命に持っているものであり、それらが相互に矛盾することもあるので、正しい現状把握のためにはそうした矛盾がどう実生活で消化されているかを洞察し、目的に沿った助言をいかに導き出すかが問われるのです。洞察と鵜呑みは対極に位置しています。だから鵜呑みにするなと、くどくど申し上げるのです。

 算命学とは一切係わりのない内海医師が、著書『精神科は今日も、やりたい放題』で大変意義深いことを述べているので、少しかいつまんで紹介します。これは算命学の学習者の心得としても有用ですが、もとより精神科を糾弾する本ですから、精神病という定義さえ曖昧な精神医療を鵜呑みにし、自分の人生がうまくいかない理由を病気のせいにして責任逃れをしたい心の弱い現代人にも咎はある、という患者に向けた厳しい喝でもあります。自分の人生がうまくいかない理由を宿命のせいにしたい人にとっても、責任逃れをするなという厳しい喝になりますので、心の弱い方、弱いままでいたい方は、この先は読まない方がいいかもしれません。

「強迫観念やトラウマ、憂鬱や支離滅裂は多かれ少なかれ誰にでもある。むしろ生きていて無い方がおかしい。観念による苦しみや悩みは人間にとって必然であり、治療などしてはいけないものである。もし治るとしたら、それは社会や家族のごたごたを通して軟着陸していくものでしかない。」
「目の前の出来事を病気として捉えるのではなく自ら乗り越えようと努力している者が評価されず、ちょっとした不安に対して逃げて近付こうとしない人たちの方が「病気」とされて大切に扱われる昨今の流れが、真っ当なものとはとても思えない。少なくとも古来より人々はそのような不安があるのは当然と認識し、越えるも越えぬもその人次第として判断してきた。しかしこの生理的反応を病気として定義さえすれば、精神医療界や心理学界が莫大な利益を得ることができる」
「実際に重いPTSD患者の場合、虐待など何らかの家族問題があるか、いじめなど強い排他的ストレスを経験して、且つ友人などがいない者ばかりである。その人類に普遍的なトラウマを治すべきかどうかはよく考える必要がある。古来より人は、トラウマを抱えながらそのトラウマをバネにして人生の原動力としてきた。自分にとって嫌な思い出をバネにして人生に活かすことができるのは、ありきたりだが人の愛情や友情といった支えであり、それは家族や親友の仕事であって、医者ができるものではない。」
「多くの人は幻覚・幻視を経験しているが、その人たちが精神科を受診しないのは、それが人間として当たり前であったり了解可能であると判っているからである。その意味では、統合失調症として次々拡大診断されている患者さんたちは、適応力は低いのかもしれない。その幻覚が人間として普通にありうることを理解できないからだ。」

 内海医師のこれらの発言を痛快だと思う人と、厳し過ぎると耳を塞ぐ人とで、どれほど人間として差があるか。問われているのは「適応力」と「理解力」ということです。そして家族に恵まれていない人にとっての朗報は、友人や親友の存在です。血縁者でなくとも友人や親友が、家族代わりの役割を果たしてくれるのです。そうすると、信頼できる友達が一人もいない人は上述の通りPTSDに罹るかもしれませんが、普通に暮らしていて、一体友達が一人もいないなどという事態がそうあるものでしょうか。友達が一人もいないということ自体、その人の人格に欠陥があると見做すべきではないでしょうか。そしてその欠陥は、そう頭の悪い人でなければ、社会における成長過程で徐々に克服できるはずのものではないでしょうか。一体誰のせいだというのでしょう。全てはその人本人の、至らなさのせいなのです。

 というわけで、今回の余話のテーマは因果応報についてです。鑑定技法に関する話ではありませんが、鑑定する側として、依頼人の言葉から何を汲み取るべきか、ひいてはこの世の様々な事象について、私が常々鼻白んでいる「信じられません」とのたまう人々が如何に自分の頭で原因を考えることをしないか、という点について、おそらく一般社会には受け入れ難いであろう算命学的なドライな視点から論じてみます。

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