異想随筆集「レッドブル・ペトリコール」(全文読めます)
しばらく雨の降らない日々が続いた後に雨が降ると、「雨の匂い」と呼ばれる独特の香りが漂ってくる。地面から放出された化学物質と雨と植物の油が混ざり合った匂いで、「ペトリコール」とも呼ばれる。1964年、イザベル・ジョイ・ベアとR.G.トーマスという科学者が発表した論文で使われた言葉だという。
「Petra」はギリシャ語で石。
「Ichor」はギリシャ語で神々の血。
もちろんギリシャでもオーストラリアでもない土地に降る雨にも独特の匂いはある。
液体由来の匂いは雨ばかりではない。ひと昔前のブラック企業の話だが、そこでは社員の誰もがレッドブルを常飲していた。休憩室の自動販売機の半数はレッドブルであり、それも瞬く間に売り切れていった。出社と同時に飲み、トイレ時、昼休み、トイレ時、定時が来た際に、残業中、残業中二本目、退社時、といった具合に飲み続けるのだった。人によっては退社と出社が同時という人もいた。
人は摂取したもので作られる。体臭は自然と飲み食いし続けてきたものと似た匂いを発するようになる。その会社は蒸し暑い時期など特に、社員たちの流す汗から著しいレッドブルの香りが漂っていた。
異常が日常となっていたその会社も、実際に倒れる人が大勢出たり、働き方改革などという流行に乗っかっていったりしたおかげで、一人あたりの仕事量も緩和され、レッドブルの消費も減っていった。レッドブルも下火になり、あらたなエナジードリンクとしてモンスターが台頭してきた頃、私はその職場を辞した。かつてレッドブルの飲みすぎで肝硬変に近い状態となっていたのとは別の事情で。一身上の都合というやつだ。
すれ違う誰かの体臭に、時折レッドブル・ペトリコールを感じる時がある。気のせいかもしれないし、それは線維化した肝臓の細胞が醸し出している香りなのかもしれない。
今もどこかで形と名前を変えて、エナジードリンク・ペトリコールは香り続けていることだろう。私はそこから抜け出したが、抜けたところで健康になったとはいえない。自分では気づかないだけで、取り返しのつかない何かをまき散らしているかもしれない。
(了)
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