「風呂迷宮・風呂空間」#シロクマ文芸部
月曜日から風呂に入れていない。もう日曜日になってしまうというのに。梅雨時の湿度の高い暑さでかいた汗を流せないでいるから、臭くて苦しくってたまらない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。私はただ、新しくできた銭湯に行きたかっただけなのに。
月曜日、会社から家に帰ってまず汗を流そうとしたらお湯が出てこなかった。給湯器の故障らしく、管理会社に電話してみたが、すぐには手配できないと言われた。そこで私は先日郵便受けに入っていたチラシを思い出したのだ。「スーパー銭湯カフカ開店」というそのちらしを、ゴミ箱を漁って見つけると、私の住むアパートからそう遠くないことを確認して、部屋を出たのだ。余計なものは持っていかないでおこうと、スマホも家に置いたままだった。着替えもタオルも洗面用具も何も持っていかなかったが、銭湯で揃えられるだろうと高をくくっていた。銭湯にたどり着けないなんて思いもしなかった。
巨大な和風建築の高層部は建物の間から垣間見えるのに、そちらに向かうつもりで道を歩いていくと、見失ったり遠ざかったりした。曲がり角で出会った、片目を瞑り続けているという特徴的な人相の男と、次の角でも会ったりするのだった。同じ男が右目を瞑り、左目を瞑り、両目を瞑っている、という具合だった。
「また会いましたね」
「へえ」
「また会いましたね」
「へえへえ」
「見えているんですか」
「へえへえへえ」
とまるで埒が明かない。
何時間歩いても、迷宮をぐるぐると回り続けているようだった。いつしか自分の家へ帰る道も見失ってしまった。少し歩いてひと風呂浴びて帰るだけのつもりが、入り組んだ道を歩くうちに銭湯にも行けず家にも帰れない羽目に陥ってしまった。
仕方ないのでタクシーを拾おうにも、そもそも車道がないのだった。建物と建物の間を細い歩道が続くばかりで、車の発明されていない世界を歩いているようだった。どこか泊まるところはないかと宿を探した。すると、これまで意識していなかったから目に入らなかっただけか、どの建物も「宿」の看板を出していることに気が付いた。知らぬ間に観光地にでもなっていたのか。地元のことなど地元の人間でもよく分かっていないことがあるものだ。少し歩くだけでこんな土地があったのか。私は高層ホテルは避けて、自分の住む安アパートと大差ない作りの和風の宿へと飛び込んだ。妙齢の女性が出てきて「お泊りですか?」と言うなり私に腕を絡めてきた。
「私は風呂に入りたいだけだ!」と思わず女性を跳ねのけた。
「風呂なら壊れております。ここらのどの宿も同じですよ」と彼女は言うと、わざわざ浴室へと案内してみせた。古い木製の浴槽が丁寧に切り刻まれていて、とても使い物にならないのが一目で分かった。
「ではタクシーを呼んでくれないか」と頼むと「楽しいことをしましょうか」と言い出して、人の話を聞いてくれない。彼女は細い腕から信じられないほどの強い力を込めて私を寝室へと押し倒した。そのままなすがままにされているうちに月曜日は終わった。
私はせめて身体を拭きたかったが、それも許されないまま、朝になると思ったよりも安い宿代を取られて追い出された。私が彼女を満足させることができないのが気に入らなかったようだ。スーパー銭湯のチラシをもう一度出して眺めてみると、書かれた文字列が少し違ったものになっていた。
「銭湯 カ」と文字が零れ落ちたような体裁になっていた。私はまた同じようなところをぐるぐる周るばかりであった。会社への欠勤連絡もできていなかった。
その日の宿は昨夜の失敗を受けて、一見しっかりしたホテル風の建物に入った。そこには人間がおらず、犬と熊の混ざりあったような従業員が清掃に精を出していた。
「風呂に入りたいんだ」と私は大きな声を出した。
「タクシーを呼べたらタクシーを。呼べないなら宿泊を」
犬と熊の混ざりあったような従業員たちは私の言葉を分かったような分からないような顔をしつつ、階上を指差した。風呂も電話もなかったが、かび臭いベッドはあった。座ると潰れた。潰れたベッドを布団代わりにして眠ると朝が来た。私は警官たちに取り囲まれていた。警官の脇には犬と熊の混ざりあったような従業員が悲しそうな顔をして佇んでいた。
「人が泊まっていいところではありません」と警官は私を問い詰めた。
「しかし私は銭湯に行って風呂に入りたいだけだ」私の見当はずれな答えを返しているなと自分でも思った。
「風呂だって?」警官たちは笑い始めた。人と思っていた警官たちもよく見れば制服の袖口から獣めいた毛がはみ出していた。
警官たちが笑い転げている隙に私はそのホテルを抜け出した。警官たちの方でも真剣に私を捕まえようという気持ちもなさそうだった。
腹が減ったので食い物屋を探した。思えばこの月曜の夜から何も食べていないまま水曜日の朝を迎えていた。すると今度は食い物屋の看板ばかりが目に入るようになってきた。「団子屋」「クリームパン屋」「パインアメ屋」といった甘味処ばかり目についた。丼物や肉類を食べたかったが、遠目には牛丼屋の看板がかかっているように見えた店も、近づけば甘味処に変わってしまっていた。仕方なくいくつもの甘味をつまんでいったが、どれも泥のような味がした。腹の中のドロドロを抱えながら、遠ざかっていく銭湯を恨みながら眺めているうちに水曜が終わっていった。この日は野宿をすることにした。
夜中に雨音で目が覚めた。風呂に入れないならせめて雨を浴びよう、と空を見上げると、少し先の地面が濡れていた。追いかけるとその分だけ雨は遠のいた。雨雲は私から逃げるように動いていき、濡れていた地面もすぐに乾いていくのだった。雨を追いかけているうちに木曜日の朝がきた。
すれ違う誰もが風呂に入れていないようで、饐えた臭いが漂っていた。人のことは言えないに違いなかった。自分の家から随分と離れてしまった気がするのは、人の形に似ていない者たちが増えてきたせいでもあった。動物や化け物ならまだしも、家具や電化製品や鉱物じみた生き物が増えていた。野宿であまり眠れずに身体を痛めたせいか、私も脇腹あたりが土気色になってきていた。
木曜の夜から土曜の朝までは宿屋でごろごろし続けていた。歩く体力がなかったせいもあった。私とよく似た境遇の何かと絡み合って目の前の現実から逃げてもいた。
「カフカの『城』っていう小説知ってる?」とそのごろごろした何かは言った。
「学生の頃に途中まで読んだことがあるよ」
「あれは未完に終わる話だから、どこまで読んでも『途中』なのよ」
だから、とそのごろごろした何かは遠い目をして続けた。
「だから、ずっとずっと私たちは『城』の続きを生きているとも言えるの」
「風呂に入りたいだけなんだがなあ」と私はそのごろごろとした者の耳元で囁いた。
「もうすぐみんなが入れるようになるみたいよ」とそのごろごろした者は言った。
「風呂が直るのかい?」
「ここら中が全部お風呂になるんだって」
土曜の昼にそのごろごろした者とちょっとしたことから口喧嘩になって、別れてしまった。多分最初に出会った瞬間からずっと私の一部が気に入らなかったようだった。長く過ごすうちに直ると思っていたことが直らなかったのだと言い出した。私たちはそんなに長くいたつもりもなかったのだが、本当は何十年もいたのかもしれなかった。ごろごろしているうちにすっかり私もごろごろした者になっていた。今なら銭湯までの坂道もごろごろと駆け登っていける気がした。しかし気のせいだった。転がり落ちた。
とうとう日曜日になってしまったが、辺りは祝祭の雰囲気で満ち溢れていた。
「風呂が来る! 風呂が来る!」と誰もが叫んでいた。私はごろごろした者になっていたので口が尻にあった。試しに「風呂が来る!」と叫んでみると、自分でも本当に風呂がやってくるような気になってしまった。街の中央に聳え立つ銭湯から大量のお湯が流れ出すのが見えた。私はごろごろした者になっていたので目が尻にあった。尻を空へ向けていると何か涙がこぼれてきた。それは温かい涙であった。お湯であった。周囲の誰もが温かい涙を流していた。坂道の上から大量のお湯が流れてきた。私たちはこれから風呂に入ることができるのであった。私たちのいるここら辺り全てが風呂になるのだった。私たちも風呂になるのであった。尻から例のチラシを取り出すと、「湯」の文字しか残っていなかった。文字からもお湯が流れ出していた。
月曜の朝、さっぱりして人間の姿に戻った私は一週間ぶりに出社すると、火曜日からの無断欠勤について大変怒られた。「風呂に入れていなかったので」という言い訳で通すと、三時間後に許された。
(了)
今週のシロクマ文芸部のお題「月曜日」に参加しました。
題名は内田善美「草迷宮・草空間」より。元々は泉鏡花の「草迷宮」ですね。
原案は「架空書籍紹介」の「風呂」。カフカの「城」のパロディです。
「月曜日からお風呂に入れていないという設定にして、延々とお風呂を探す『城』のパロディをやろう。題名は内田善美の漫画から借りて……」と自然な構想を練っているうちに、諸星大二郎作画で展開を考え始める、という話に。
note創作大賞2024にエッセイ部門で参加してみました。