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「首がもげたキリン」になるまでのこと

 子どもたちを学校に送り出し、最低限の家事を済ませた後で一、二時間横になる。あれこれとやらなければいけないこともあるし、掃除したい箇所もたくさんある。しかし夜勤明けの妻が寝息を立てているから大きな音を立てられないし、一日の後半に向けて体力を温存しておかないと、子どもたちが帰ってきてからの身体がもたない。晴れた日には、小学一年生の息子は帰ってすぐに家の近くの公園に行きたがる。自然の豊かなその大きな公園は、私にとっても憩いの場となっている。その頃までに、ある程度問題なく歩けるぐらいにしておかないといけない。

 横になりながら私は昔書いた「首がもげたキリン」という童話を思い出す。ある朝目が覚めると身体から首が取れてしまっていた子どものキリンの物語だ。

 ある朝キリンのアゾルカが目を覚ますと、目の前にキリンの足がありました。
(おや、寝惚けているのかな。起きたんだから首を起こさなくちゃ)
 ところが、いくら力を入れても、視界が横に動くだけで、ちっとも首が上に上がりません。ざわざわと地面の草が首を撫でてとてもむず痒いです。
(どうしたことだ。何かの病気かもしれない)
 と、アゾルカは思いました。

 そこへ、アゾルカの母キリンがやってきました。とても哀しげな目つきでアゾルカを見下ろして、こう言いました。
「坊や、あなたの首はもげてしまったの。じきにあなたは『死』に捕らえられるわ。
 キリンは首がもげたら死んでしまうの。私にはどうすることも出来ないの。
 新しい子供を作るために旅立つわ。さようなら坊や」
 そう言うと母キリンはアゾルカの首を置いて去ってしまいました。首のないアゾルカの胴体は、母キリンを慕ってついていきます。母キリンははじめアゾルカの胴体を追い払っていましたが、根負けしたのか、首がないとはいえ可愛い息子だからか、一緒に連れていってしまい、アゾルカは首だけでひとりぼっちになってしまいました。

童話「首がもげたキリン」より

「死」を理解せず、首がもげても生き続けるキリンのアゾルカは、自力では動けない。アリやハイエナやライオンやヘビに出会い、少しずつ「死」を理解していく。

 この話を書いた2006年ごろ、病気になっていたのは私ではなかった。母は会社の健康診断で引っかかっていたのにも関わらず再検査しなかった結果、大腸がんのステージ3後半となっていた。手術で大腸の一部を取り除いた影響はあったが、18年経過した今も母は生きている。当時の死生観を、私は即興小説を発表する舞台としていた掲示板でぶつけた。いつもなら単発で終わらせる文章の末尾に気まぐれに「続く」と書き添えたことで連載形態となり、数日後「首がもげたキリン」という一編が完成した。

 現在の私が横になるのは、母のように大腸がんのせいではない。2024年が始まって間もなく、頭痛が酷くなった。元々頭痛持ちであった。2023年末から急激に仕事が忙しくなったのも影響していたのかとは思うが、似たような時期に激しい頭痛に襲われるのは、ここ数年来毎年の出来事でもあった。頭痛薬を変えたりして持ちこたえていたが、一日の終わりには立つのもやっとの状態になった。最終的に、痛み止めをロキソニンという、一番効果があるという薬に変えた。しかし全く痛みは消えず、病院へと駆け込んだ。

 当初は「硬膜下出血」と診断されたが、緊急入院した先の担当医が言うには「脳脊髄液減少症でしょう」とのことだった。脳と脊髄は「硬膜」という袋の中で、髄液という液に包まれて浮かんでいる。脳脊髄液減少症とは、何らかの理由で髄液が漏れ出て髄液量が十分に保たれなくなり、様々な症状を引き起こす病気である。

 私は二週間病院のベッドの上でほぼ寝たきりの安静状態となった。トイレと食事の際には起き上がることが許された。入院直前の頭の激痛は横になると治まり、痛み止めも入院四日目からは飲まずに済んでいた。しかしくしゃみなど、頭に激しい揺れが加わると瞬間的に痛みはあった。

 交通事故やスポーツ外傷などが発端として発病することの多い病気であったが、私自身はそれらに身覚えがなく、原因は不明であった。しかし数年前から似たような時期に頭痛が激しくなることはあったので、兆しはあったのかもしれない。仕事の忙しさが症状を増悪させ、入院するに至った。その場しのぎの痛み止めをもう数日続けていたら、脳に致命的な出血をしていた可能性もあったという。

 病院で横になっている間、大量に電子書籍を読んだ。力仕事は難しい病気であるため、職場復帰は早々に諦めていた。事務員として戻れるほどの隙間は職場にはなかった。

 同じ病室には老いた方が多かった。手術後にいろいろな機械を必要とする患者がいて、夜中でも機械音が騒がしかった。私は入院後激しくなった耳鳴りを塞ぐためにティッシュを丸めて耳に入れていたが、役には立たなかった。後で主治医に「液が減って脳が沈んだ際に、聴覚神経が傷ついたのでしょう」と言われた。調べてみると「耳鳴りは治らない」といった文言ばかりが目に入った。

 首がもげたキリンのアゾルカは、アリに頼んだが運んではもらえず、寝入るとハイエナに囲まれていた。ガジェットというハイエナと仲良くなり、アゾルカはガジェットに食べてもらうことで「死」を受け入れようと覚悟する。

 アゾルカの肉は日毎に減っていきました。
「明日でもう、あなたのことを食べきってしまうかもしれません」
 ガジェットは寂しそうに言いました。
「好きなひとたちに食べられるのだから、僕はとても嬉しいんだ。もっといろんな世界を見たい気もあったけど、ガジェットがたくさん話を聞かせてくれたから、もう充分かもしれない。できれば、朝目覚める前に僕を食べきってくれないか。起きて君の顔を見ていたら、まだ死んでしまいたくないと思ってしまいそうだから」

 ガジェットは頷き、アゾルカの首をぺろぺろと丁寧に舐めた後、二匹は並んで眠りにつきました。
(広い世界を見ることは出来なかったけれど、僕は幸せだった)アゾルカはそう思いました。

童話「首がもげたキリン」より

 しかしアゾルカは目を覚ます。ガジェットたちはドレンというライオンに襲われてしまっている。アゾルカは愛するガジェットの血肉となることは叶わず、食料としてドレンにくわえられて運ばれていく。

 三年前、上の子が不登校になったのをきっかけに、以前の職を辞した。ずっと前から会社の方針についていけていなかった、妻が当時の仕事でフルタイムで働き始めたところだったので、妻の頑張りを無駄にしたくなかった、家で娘を見ながら家でできる仕事をやればいい、そんな考えだった。しかし私はnoteでいくらか記事を書いたところで、文章一本で稼ぐなんて、とても無理だと早々に諦めた。自分の書きたい文章しか書きたくはなかったし、集中して何かを書いていても頻繁に娘に呼ばれて中断した。その頃にも現在の症状に通じるような頭の痛みがあった。

 三年生の夏から不登校になっていた娘は、四年生進学と同時に登校を再開した。認定こども園に通っていた息子は、毎日暗い顔で帰ってきていたので、娘も通っていた幼稚園の方に転園した。そこで毎日楽しく通い出したので、一日中子どもたちの相手をすることから解放された私は、何になったか。

 何にもならなかった。

 子どもたちが帰ってくるまでの時間で、仕上げることのできたものといったら、掌編小説を一編公募に出して、落選しただけだった。やがて自転車で五分の距離にある近所の物流会社で働き始めた。以前の会社と違い、毎日定時で帰り、平日でも子どもたちと遊べた。給料は安かったが、自分にとっては適度な肉体労働だと思っていたし、体重も二十代半ばのベストな頃まで戻った。

 しかしその職場で一年半働いたところで、私は脳脊髄液減少症で倒れてしまう。毎日ドラゴンボールごっこで遊んでいた息子に、就寝前の病室から電話を入れると「早く帰ってきて!」と怒られた。

 退院が近づいていた頃を思い出す。二週間の安静療法の後、起き出してみると頭の重みも軽くなっていた。リハビリ室でのリハビリでは、老齢の方が多いものだから、私は浮いて見えた。エアロバイクを15分間漕ぎ続ける様は、リハビリというよりはスポーツジムだった。もう全然大丈夫だと思った私は、ちょうど三週間で入院生活を終えた。

 ライオンのドレンともアゾルカはいろいろなことを話す。ドレンは群れに入れない弱いライオンであった。母のいる群れに戻りたくても戻れないでいた。

「ここでこいつに殺されても本望だ、と思うことが何度もあったよ。その方が楽だしな。でも、はぐれライオンなんかに情けをかける奴はいないから、最後には俺を嘲笑いながら逃がすんだ」
 ドレンは遠い眼をして言います。
「それは、ボスライオンたちはみんな優しかったからじゃないのかな」
「そうかもしれんな。だが、優しさが相手を傷つけることだってある」
 そう言うドレンは、アゾルカの言葉に何か傷付いたようにも見えました。
「それより、腹が減った。悪いが、お前を食うぞ」
 ドレンは、アゾルカの耳の間にある、2本の角をぽきりと折って食べ始めました。
「僕は、美味しい?」アゾルカは聞きました。

「俺がもっと狩りが上手くて、腹が今ほど減ってなくて、ヘビでもネズミでも今すぐ捕まえることが出来るのなら、ほっぽり出してしまいたいくらいの味なんだろうな。だが、もう腹がぺこぺこでスカスカで、肉食のプライドを捨てて木の根まで食べてしまいたいような今では、お前のようなものでも、美味しく感じるんだ」
「何であれ、美味しく食べられることは嬉しいよ」
 アゾルカはそう言って笑うと、ドレンはアゾルカの頭を優しく撫でてくれました。
 それは健気なアゾルカを誉めるようにも、次はどこを食べようかと探っているようにも見えました。
「最後まで話を聞いていたいから、耳はとっておいてよ」とアゾルカは言いました。

童話「首がもげたキリン」より



 退院後、「もう全然大丈夫ですよ、職場復帰できますよ」となるかと思ったが、そんなことはなかった。油断して入院前のように熱いお風呂にのんびり浸かると、激痛に襲われ、しばらく服用していなかった痛み止めを頼った。

 一か月後及び二ヵ月後の定期健診では「頭蓋の隙間は埋まってきてます」と言われた。仕事は「力仕事のない事務仕事を、半日勤務などから慣らしていくのが理想的」と主治医に言われた。しかし季節が移ろい、寒暖差の激しい時期になると体調は悪化した。雨模様の日も朝一から頭痛に襲われた。頭だけを下げる姿勢はよくないのだが、家具の隙間に落ちた物を拾う時にしばらくその体勢を取ってしまい、耐え切れなくなった。力仕事などをするわけではないからといって、一日に用事を詰め込んだ日の翌日から大きく体調を崩した。一日のうち1~2時間は横にならないと、最後まで乗り切れなくなってきた。

「家事」「買い物(or用事)」「子どもの相手」それと何らかの執筆と休息で一日が終わっていく。半日でも働こうと思っていたが、体調が落ち着くまではそれも諦めた。締め付ける痛みが襲ってくるたびに、入院直前の恐怖が蘇る。安静治療で回復したのなら、安静にしていなければまた危険な状態に戻ってしまうのかもしれない、という想いが常に頭にある。

 ライオンのドレンは密猟者たちに狩られてしまう。残されたアゾルカは今度はヘビと出会って話し始める。しかしヘビはこれまでの動物たちのように優しくはなく、短くなっていたアゾルカを丸呑みにしてしまった。大きくお腹を膨らませて身動きできなくなっているヘビに一頭のハイエナが近づいてくる。アゾルカと長く語らっていたガジェットだ。

 ガジェットはかすかに聞こえる聞き覚えのある声に首を傾げ、アゾルカの臭いがするのに気付きました。ヘビは早くアゾルカを消化したくて、いきんだりむくれたりしてみるのですが、口からアゾルカの臭いが洩れて行くのはどうしようもありませんでした。アゾルカがもう眼も口も溶けて見えなくなる前に、ガジェットがこちらに向けて走ってくるのが見えました。

(僕はもう話が出来ないみたいだけど、ガジェットはきっとヘビのおじさんと友達になって、僕の話をしてくれるだろう。僕はこのまま全部溶けて無くなって、『死』にようやく捕らえられても、誰かが僕のことを思い出してくれるのなら、それだけでもこれまで生きてた甲斐はある気がする)
 そうしてアゾルカの意識は途切れました。

童話「首がもげたキリン」より

 やがてアゾルカは死と向き合うことになる。私は病室のベッドで二週間横になっていたが、首がもげていたわけではなかった。トイレのために起きて歩くことは許されていた。食事も起き上がって食べることができた。ハイエナが私を囲むことはなかったし、母親に見捨てられるということもなかった。それでもどこかで「元々自分はこのような病気になることが分かっていたのではないだろうか」という想いが捨てきれなかった。電子書籍で浴びるように本を読み、Bluetoothキーボードをスマホに繋げて文章を書き続けた。病気であることと、家族と会えない寂しさを除けば、理想的な生活であるともいえた。

 脳脊髄液減少症での入院から約四ヵ月、定期健診でMRI検査を受けた。結果は「脳の状態は回復しており、再発もおそらくないでしょう」とのことだった。しかし症状はあった。ずっと締め付けるような頭痛があり、巨大な耳鳴りが鳴り続け、身体の平衡感覚は危うくなっており、一日一日をどうにか乗り切るような状態であった。
「発病後半年くらいは症状が出るものです」
 二月の入院から数えると現在で約四ヵ月。あと二ヶ月で何もかもが元通りになるのだろうか。

 もう四十半ばになる。これまでやってこなかったことはこれからもやらないだろう。これまでやってきたことはこれからもやり続けるだろう。入院中に読み続け、書き続けてきたように、家事と買い物と子どもの相手と休憩の合間は、何かしら読んで、何かしら書くようにしている。問題なく働ける身体に戻ったら、また働くだろう。雇ってもらえるところがあるかはともかくとして。

 正直言うと「回復は見込めませんね。今後一生無理はできません」と言われることを期待していたのかもしれない。入院中の「読み、書く」は一種の理想形でもあったのだから。入院記録の記事を投げ銭で書くことで、お見舞い金としてだろうか、入院費の足しになる金額にはなった。文章一本で稼ぐなんて難しいこととはいえ。脳梗塞を何度も経験して指先だけしか動かせない身体でありながら、電子書籍を読み漁り、kindle出版した方がいて、勇気をもらってもいた。

 私は首がもげたキリンになりたくて、あの話を書いたのかもしれなかった。
 終盤、アゾルカは巨大な同族の形をした「死」そのものに呑み込まれる。

「生き直すことが出来たら、もっといろんな人と話をするのになあ。いろんなところへ行って、毎日夕焼けや朝焼けを眺めて楽しむのになあ」
 アゾルカは、失ってしまった『生』が、ようやくかげがえのないものだと気付きました。
「好きなように、いつだって自分の思い通りに生きているやつなんていないのだよ」
『死』がそう言うと、アゾルカは少し慰められました。
 アゾルカが首だけでなかったら、ガジェットやドレンたちとあんな風に話が出来たでしょうか。
 首だけになってからアゾルカが見たことや聞いたことと、首がもげずに生きていられたら見れたことと、どちらが素晴らしいものだったかは確かめる術はありません。それなら、今まで自分が生きてきた道のりこそ最上のものであったと、せめてそう信じてアゾルカは死んでいきたいと思いました。

童話「首がもげたキリン」より

 
 最終的に物語の作者そのものが「死」に呑み込まれて話は終わる。ネットで話題になった当時は、作者死亡説が流れたりしていた。その後も私は18年間生き続けている。運よく生き延びている、といえるのかもしれない。病に倒れたことをきっかけにして執筆と読書三昧の生活に入ることができるかと思ったが、生活と家庭と、皮肉なことに病状回復がそれを許してくれそうにない。

 現状の身体の不調は、深刻な後遺症などではなくて、退院後のリハビリをさぼっているので、入院中に落ちた体力が戻っていないだけかもしれない。単純に加齢による身体能力の低下と、主夫業の大変さからくるものかもしれない。

 まだ首はもげてはいない。まずは軽い運動から始めようか。そして何かしら書いていこう。書いている間は生きている。働けるようになってからも、書き続けるためにも。

(了)


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泥辺五郎
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