「生まれてこなかった子どもたちへ」(音楽随筆集「電車かもしれない」たま)
先日、子どもたちと漢字遊びをした。
娘と「キラキラネーム」について話していた後の話だ。
「光宙」と書いて「ピカチュウ」とか。
「赤井彗星」と書いて「シャア」と読むとか。
その流れで娘が「新しい娘が生まれたらどんな名前にする?」と聞いてきた。
そんな予定はないのだが、娘は「自分に子どもが生まれたら」とも考えているようだった。
最近漢字への興味を強く示している息子も参戦して、「いろいろな漢字の読み方」を考えたり、「いろいろな名前」を考案したりする遊びが始まった。
小学六年生の娘と、一年生の息子。
賑やかな二人の様子を眺めながらふと、その間に生まれていたかもしれない二つの命のことを想った。合わせて四人の子どもたちが和室を賑やかす。きっと遊びは一つの部屋の中では収まっていないだろうし、ある子どもは外に一人で遊びに出ているかもしれない。
娘の次に妻のお腹の中にできた子どもは、8週目でいなくなった。
前の週には確かに動いていた小さな命の鼓動が、翌週には消えていた。
娘はまだ幼稚園にもデイサービスにも通っていなかった頃で、妻の健診の間、産婦人科の保育室で預かってもらっていた。娘を他人の手に預けるのが初めてのことで、不安でいっぱいだったことを覚えている。しかし引き取る頃には楽しそうにしていた。
悲しみより混乱が先立ち、決して低い確率で起こるものではないと、数字で自分たちを納得させようとしていた。検査薬で妊娠が判明してから、様々なことを皮算用していた。それらが一気に消え失せてしまった事実を、うまくつかめなかった。
次の妊娠にはしばらく間が空いた。娘は幼稚園に通い始めていた。検査薬で判明し、産婦人科に通う。当時働いていた会社は年中無休の食品生産工場だったので、私は正月でも働きに出ていた。1月2日、主婦層のパートが一斉に休んでいる正月、人手不足ながら外国からの実習生の受け入れを開始していた年だったので、前年までほどの大変さはなかった。それでもギリギリの頭数で、社員が各ライン全般をサポートしながらどうにか回していた。そこに妻からの電話が私あてに入った。
「不正出血したので病院に行ったら、流れてたって」
9週目に入っていた。
私は電話口で人目もはばからずに泣き崩れた。幸い工場の生産にはめどがつき始めていたタイミングであり、私は泣き声のまま当時の工場長に事情を話したところ、早退を許可してもらった。日頃私を言葉の鞭でボコボコにすることに心血を注いでいた方だが、その日は優しかった。
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