ふと十六年
十六年前にいる。
十六年前の自分が今の自分と同じところにいる。
違うのは八歳の娘と三歳の息子が家の中で暴れまわっていることか。
久しぶりに俳句を詠んだのだ。
きっかけはTwitterだった。
フォロワーの方が「いいね」をつけた呟きがタイムラインに表示されている。
何日かに一度、自分でも、いいな、と思うようになった。
詠んでいる人をフォローすると、他の人の俳句もちらほら見かけるようになった。
毎日季語を紹介している方がおられ、その季語で作句する方々がいる。
毎日、句会が開かれているようなものだった。
私が積極的に俳句を詠んでいたのは2005年のことで、毎日季語を選び、一日八句を目安に詠んでいた。
多数の句集を読んだ。一番心に響いたのは加藤楸邨だった。清濁合わせのみ、遊び心も豊富な俳人だった。
一部は当時書いていた読書ブログにも載せていた。
今確認すると、そうやって毎日鍛錬していたつもりの句を、あまり良いとは思えない。
俳句に触れ始めて間もない頃、即興で書いたのばかりが心に残っていた。
心身ともに随分と疲れていた日があった。
そんな日にゆったりとしたバラードを聴くと、余計にイライラする。
スラッシュ・メタルがいいな。
普段あまり聴いてないアーティストがいいな。
それで、筋肉少女帯「スラッシュ禅問答」という曲を聴いた。
「人生つらけりゃ俳句を読めよ 言葉がたりなきゃ短歌があるぜ」
そんな歌詞が刺さった。
そうだ、俳句を詠もう。
そのようにして十六年前に戻った。
「芋煮会」「色鳥」「柿干す」「雀蛤となる」
各季語紹介は省略。
「こういう季語がある」というくらいの認識で構わないと思う。
今の時代、季語に相応しい情景に出会う機会も少なくなった。
だから私は、背後にその季語が生きている世界を創作した。
埋立地重機ばかりで芋煮会
日野啓三「夢の島」を読んでいる。埋立地をさまよう主人公。芋は食べてない。
群れている「青の時代」に色鳥が
外への扉が開かれた美術館でピカソ展が開かれている。迷い込んだ極彩色の渡り鳥達は、皆「青の時代」の絵に吸い寄せられるように群れている。出て行く鳥たちの羽根は微かに青みが増している。館の中で落ちた羽根は絵の具に変化し染みとなる。
洗濯物一つもないので柿を干す
かつては人間だったものが廃村に住んでいる。汗もかかず着替えもしないので洗濯物がない。だがいい天気過ぎるので何か干したい。庭(といっても外との境目はもうない)の柿の木からもぎって干し柿を作る。食べるものもいないので渋柿であっても。
海底はすべてハマグリ 元・雀
海の底に敷き詰められたハマグリは、元は雀であった。海面が上昇し、狭くなった空で鳥は生きていけなくなり、海に潜った。始めは雀たちだった。彼らは海に触れればハマグリとなる性質があった。他の鳥もやがてそれに倣った。空と鳥は絶えた。
諸星大二郎的な世界観だ。諸星大二郎の漫画を一番読んでいたのも、きっとその辺りだった気がする。
昨晩から口の中が痛いと言うので、念の為に幼稚園を休ませた息子が、娘とともに家の中で元気に暴れまわっている。幼稚園に休みの連絡を入れた時にも背後で大きな声を出していた。病院への予約の時もそうだ。
十六年前は何するにも一人だった。
今はたまに一人で買い出しに出る時以外は、いつも家族の誰かといる。
少し前は私がパソコンに向かった途端に、「あそぼ」と言ってきた息子も、自分の世界を持てるようになってきた。百均で買った三セット分のドミノを一生懸命並べていることもある。
時は戻りはしないが、過去と現在は常に併存し続けている。
あの頃読んだ本をまた読むように、あの頃していたことを今もしている。
そろそろ息子がちょっかいをかけにくる。
※案の定、記事投稿しようとした瞬間に、息子がタオルを私の顔にかけてきた。