小説を書きたかった猿2021(1)
寝起きの娘が鼻水をすすりあげている。
吸引器で鼻水を取り除く音で朝が始まる。
イネ科の植物の花粉が飛ぶ九月ごろには毎年こうなる。アレルギーの薬を飲めば落ち着く。次に起きてきた息子が「パパおはよーパンツ丸見え!」と挨拶をしてくる。私はパンツは履いている。子どもらの起きる少し前に妻は仕事に出かけた。子どもらと変わらない時間に起き出した私はとりあえず布団をたたんでいく。仕事の最終出社日から二週間が経つ。相変わらず家事をする際は音楽の力を借りなければ身体が動かない。
曇り空だ。
ぼやけた頭だ。
スマホでGREEN DAY「Boulevard of Broken Dreams」を流す。
ビリー・ジョー・アームストロングが、一人で歩く、一人で歩くと歌っている。我が家では思い思いに子どもらが遊び始めている。布団を片付けた和室で、三歳の息子の健三郎がミニカーを走らせる。八歳の娘のココがバービー人形と小さな動物の人形たちを使って劇を始めている。やがて二人は合流し、遊びも融合する。「カーズ」に出てくる悪役レースカー「チック」がバービー人形を誘拐しようとする。「カーズ3」に出てくる「ジャクソン・ストーム」が相棒で、ずっと年下のはずのストームがボス面をしている。バービーはレゴブロックの剣を構えて抵抗する。ゲーム「マインクラフト」のレゴに入っていたダイヤモンドの剣だ。大柄のバービーの手には小さすぎる。それでもチックを軽くあしらった。
子どもらの遊びが興に乗り始めたのを見て、私はノートパソコンを開き、小説を書こうとする。
「パパ!」と健三郎の怒る声がする。
「パパの役待ってるよ!」とココも加勢して私を呼び寄せる。
小説は書けない。
二人よりも三人の方が人形劇のバリエーションが豊かになるのは道理だ。健三郎はチックとストームを私に譲り、小型の新幹線を操り始めた。空を飛びながらありもしないレールの上をガタンゴトンと言いながら新幹線を走らせている。劇に乱入してくる。
いつ寝ても四時間で目が覚めるから、早朝四時半に起きてたっぷり執筆時間を取れたはずなんだ。二度寝三度寝するつもりはなかった。こんなはずじゃなかったんだ。子どもらが起きてからでは、集中して小説執筆出来るはずなんてないのに、これじゃいつまで経っても小説を書けない。書き出しすら始められない。何のために会社を辞めたんだ。どうやってこれから食っていくんだ。
適当に私だけ遊びから抜け出して、掃除と洗い物を片付ける。
置き去りにされたスマホの中でビリー・ジョー・アームストロングがリピートで歌い続けている。何もない街を、夢敗れた街角を、一人歩く、一人歩く、と。
2009年に文芸新都で書いた「小説を書きたかった猿」の2021年版となります。