時を越えて、ロールキャベツ
タイムマシン。
それは時空を旅するマシンです。
過去に夢を見て、未来に思いを馳せるマシンです。
時空を旅することは、今の足元を見つめることでもあります。
過去があるから今がある。
そして、今があるからこそ未来があるのです。
今日は隣町にランチに行きました。
雑居ビルの2階にある老舗の洋食屋さんです。
道路に面した細い階段を登っていくと、年季の入った焦茶色のドアがあり、そのドアを押し開けて一歩店内に足を踏み入れると、そこにはハイカラな空間が広がっていました。
テーブルには赤い花柄のクロスが敷かれていて、その赤色を浮き立たせるように、椅子はシンプルなデザインのものが配置されていました。
漆喰塗りの壁はレンガや木材で装飾されていて、しっかりと額に入れられた絵画がたくさん飾られています。
人物画や風景画などの油絵から、近代的なポップアートのようなものまで、所狭しと飾られているその絵画たちは、素人の私から見ればどれもが高価な芸術作品のように見えました。
通りに面した天井まである大きな窓からは、優しい日差しが差し込んでいて、その光を浴びながら観葉植物たちは、気持ちよさそうに光合成をしていました。
窓際の明るいテーブル席に案内されると、さっそく品のよいマダムがランチメニューを持ってきてくれました。
どうやらこのお店はマダムがホールを担当していて、ムッシュが調理を担当しているようです。
本日のランチメニューと書かれた大きな黒板には、デミグラスハンバーグ、和風ハンバーグ、アンチョビとキャベツのスパゲッティなど、いかにも洋食屋さんといったメニューから、牛頰肉のシチューや、豚肉のハチミツ赤ワイン煮込みなど、クラシックなフランス料理を思わせるメニューまで幅広く載っていました。
ランチタイムにはどのメニューにもスープ、サラダ、パン(またはライス)、食後の飲み物がセットでついるようです。
私は熟考の末、ハンガリー風ロールキャベツと白ワインをグラスで注文しました。
外食でロールキャベツを注文するのはこれが初めてのことだったので、私は少しだけ気分が高揚していました。
まずはセットのミニサラダが運ばれてきます。
鮮やかな緑色のグリーンリーフに、目の覚めるような真っ赤なトマト。オレンジ色の人参に紫キャベツ。
そのエキゾチックな色合いをしたサラダには、しっかりとした酸味のあるドレッシングがかけられていました。
次にカボチャのポタージュが運ばれてきます。
サラリとした軽い口当りのポタージュで、最後まで飽きることなくいただくことができました。
スープを飲み終えると、私はまだ白ワインが来ていないことに気がつきました。
そこで私はマダムがスープ皿を下げに来たタイミングで、「すいません、ワインをいただけますか」とやんわりと尋ねてみました。
するとマダムは、「あらヤダ、私ったら、本当にごめんなさい、本当にごめんなさい」と何度も謝りながら、すぐによく冷えた白ワインを持ってきてくれました。
そんなに何度も謝られると、こちらが悪いことをしたような気分になってしまいますが、そのマダムのおっちょこちょいな感じと、腰の低さに私は親近感を覚えるのでした。
いよいよメイン料理が運ばれてきます。
ハンガリー風ロールキャベツは、じっくりとトマトで煮込まれたロールキャベツで、水色を基調としたアンティーク調のお皿にセンス良く盛り付けられていました。
私はナイフとフォークを使い、それを口に運びます。
一見シンプルなトマト煮込みなのですが、ハンガリー風というだけあり、隠し味にパプリカのスパイスが効いていて、味に奥行きがありました。
野菜の甘味をしっかりと感じさせながらも、程よいピリッとした辛味が味を引き締めています。
少し甘めに作られた付け合わせのマッシュポテトと一緒に頬張ると、口の中でトマトソースと混ざり合い、なんとも言えないハイカラな味がしました。
そのハイカラな味わいは、私の頭の中にある光景を浮かび上がらせます。
それは私が生まれるもっともっと前、初めて西洋料理を口にした日本人が、
「あら、西洋の方はこんなにハイカラなものを食べていらっしゃったのね」
なんて言いながら、口に手を当てて咀嚼している光景でした。
勘違いしてほしくはないのですが、これは決して古臭い味がすると揶揄している訳ではありません。
煮崩れせずに形がしっかり残ったロールキャベツにも、味に奥行きを与えるスパイス使いにも、トマトソースに付けられた自然なトロミにも、そこには時代とともに脈々と受け継がれてきたプロの技が光っているのです。
その技の一つ一つには作り手の歴史が刻まれています。
数々の苦しみや悲しみも、喜びも、そして未来への夢も、そこにはたくさん詰まっているのです。
料理は過去と未来を繋ぐタイムマシンです。
ムッシュが作るハンガリー風ロールキャベツは今、時空を超えて、西洋料理に触れた人々の感動をここで再現しているのです。
そんな懐の深い、ノスタルジックな味わいに浸りながら、私は時空の旅をしているかのように、ゆっくりとロールキャベツをたいらげました。
すると、白ワインを飲んだせいもあってか、お腹の奥の方がほんのりとピンク色に染まっているのを感じました。
私は食後のコーヒーをいただきました。
そのコーヒーは苦味が柔らかく、とても飲みやすいコーヒーでした。
私は席を立ち会計に向かうと、レジの近くにムッシュの絵が飾ってあることに気がつきました。
そこに描かれたムッシュは右手にサンドイッチ、左手にはビールを持ち、少しはにかんだ表情で遠くを見つめています。
そしてその目は優しく、同時に力強くもありました。
私は実物のムッシュの顔を一目見てみたいと思い、厨房の方を覗き込んだのですが、そこには黙々とフライパンを洗うムッシュの後ろ姿しかありませんでした。
私は会計を終えると入り口のドアを開け、先程上がってきた細い階段を下っていきます。
すると、外は眩しいほどに日差しが降り注いでいて、アスファルトを明るく照らしているのでした。
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