そのカフェ飯よ、大気圏を突破して
その日、私にしては珍しく、あるオシャレな街にちょっとした用事がありました。
その用事は本当にちょっとしたもので、特に時間がしっかりと決まっているわけでもなく、お酒を飲んでから行ってはいけないという類のものでもありませんでした。
そこで私はせっかくオシャレな街に繰り出すのだからと思い、以前から気になっていたオシャレなアジアンカフェで、ランチを洒落込むことにしたのです。
そのお店は駅から続く商店街をしばらく進み、電気屋さんのある角を右に入った路地にありました。
注意していないとうっかり見過ごしてしまいそうなくらい、街の風景に溶け込んだ控えめでこぢんまりとしたカフェです。
入り口の脇に造られた小さなデッキには一本の木が植えられていて、春の風に吹かれながら気持ちよさそうに緑の葉を揺らしていました。
開け放たれたままの入り口をくぐり、店内に足を踏み入れると、目の前には大きなショーケースが現れます。
その中には鶏ひき肉のタイバジル炒め、豆タコライス、カボチャのレッドカレー煮、青パパイヤと人参のソムタムなど、エスニックな香り漂うお惣菜たちが所狭しと並べられていました。
そのショーケースに目を奪われていると、「店内をご利用でしたら空いてるお席へどうぞ」とスタッフの方に声をかけられたので、私は店の奥へと進み、キッチンのすぐ隣にある2名がけのテーブル席に腰をおろしました。
白を基調とした客席は広さのわりに解放感があり、打ちっぱなしの天井からは洒落た裸電球と、何故か、小ぶりな瓢箪が一つぶら下がっているのでした。
私はなんとなくその瓢箪が気になりながらも、まずは一通りメニューに目を通し、今日のお目当てでもあった"ベトナム風豚そぼろのまぜご飯"と"エビスビール"を注文しました。
私はビールを待つ間、天井からぶら下がっている瓢箪を見るともなく眺めていました。
楕円形の中央を紐で縛りつけたようなフォルムはやはり独特で、まるで宇宙を漂う未確認飛行物体のようにも見えました。
そんな事を考えていると、程なくしてビールが運ばれてきます。
お洒落なカフェらしく、丸みを帯びた可愛らしいジョッキに入れられた麦わら色の液体は、やはり私の目と胃袋を刺激したのです。
私は待っていましたと言わんばかりに、可愛げもなくグビグビとそれを喉の奥に流し込みました。
「ああ、うまい」
やはりエビスビールはエビスビールでした。
コクのある苦味と深みのあるリッチな味わいは、いつでも私を贅沢な気持ちにさせてくれるのです。
ビールを半分ほど飲んでしまうと、いよいよベトナム風混ぜご飯の登場です。
お皿の中央に盛られた雑穀米の上には、この料理の主役である豚そぼろが乗せられていて、その周りをぐるりと囲むように、大葉、パクチー、ピーナッツ、きゅうり、大根と人参のピクルス、青ネギ、レモンなど、様々な薬味が彩りよく綺麗に盛り付けられていました。
「おお、美しい」
その芸術的な盛り付けは、焼き物のお皿の縁に施された放射線状の模様と相まって、宇宙の真理を描写したとされる曼荼羅を思い起こさせました。
私はさっそくその中央に配置された豚そぼろをスプーンですくい、雑穀米と共にゆっくりと口に運びます。
「あっ、うまい」
豚ひき肉のプリッとした食感と、雑穀米のプチッとした食感が心地よく、ほんのりと香るナンプラーの風味もたまりませんでした。
次に私は3時の方向に配置されたピクルスを、豚そぼろと雑穀米によく混ぜ込んでから口に運びました。
すると…
プチッ、プリッ、コリッ。
プチッ、プリッ、コリッ。
ピクルスのコリッとした食感が加わることで口の中には軽快なリズムが生まれ、その甘酸っぱさは豚そぼろの塩味と見事調和したのです。
私はよく考えられているなと感心しながら、更にそこにピーナッツと大葉を混ぜ込んでみました。
すると爽やかな大葉の風味が味の奥行きをぐんと広げ、ピーナッツのポリッとした食感がリズムをさらに軽快なものに進化させたのです。
私は一口ごとに生まれる変わるその食感と風味が楽しくて、無意識のうちに頬を緩ませていました。
そして私はさらなる進化を求め、残りの薬味を全てぐちゃぐちゃと混ぜ込むと、そこにレモンをキュッと絞り、それを口に運んだのです。
すると…
「な、なんだこれは」
それは私の想像の遥か上、大気圏を突破したのです。
幾重にも重なり合った味わいと風味は無限の層を織りなし、複雑に混ざり合った食感が生み出す軽快かつ複雑なリズムは、無限の波動を生みだしました。
パリッ、コリッ、カリッ、シャキッ、プリッ、プチッ、ポリッ。
パリッ、コリッ、カリッ、シャキッ、プリッ、プチッ、ポリッ。
それはもやは宇宙でした。
宇宙という空間に食感やリズムという概念が存在するのかどうかは分かりませんが、今私の口の中にこだまする音、リズム、躍動、衝突は、宇宙を誕生させたとされるビッグバンそのものでした。
私は無心で食べ続けます。
全てを飲み込んでしまうというブラックホールのごとく、私はベトナム風まぜご飯を一粒残らず体内に取り込んでいったのです。
すると次の瞬間、誰かが私を呼ぶ声がしました。
「お客様、お客様」
私はハッと我に帰りました。
「食後のデザートをお持ちしました。こちらはバナナのお汁粉でございます」
どうやら私の意識は随分と遠くまで行ってしまっていたようです。
空になったお皿を店員さんが下げてくれると、私は木製の小さなスプーンを使って、目の前のデザートを口に運びました。
初めて食べるバナナのお汁粉は、とても優しく、そしてどこか懐かしい味がしました。
ココナッツミルクとバナナのまったりとした甘味が、離れ離れになっていた私の心と体を一つに縫い合わせてくれます。
これを「整う」と言うべきかどうかはわかりませんが、私は少しずつ重力を取り戻し、しっかりと地に足を落ち着かせていったのです。
そしてデザートを平らげてしまうと、私は一度ふうーっと大きく息を吐き出してから席を立ちました。
そしてお会計をするためにレジへと向かいます。
私は入り口のショーケースの前でお会計をしながら、一度だけ客席の方を振り返りました。
すると、天井から吊るされた瓢箪は、相変わらず独特なフォルムを携えたまま静かに天井からぶら下がっているのでした。
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