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太極拳の虎

将棋にはルールと遊び方があります。
それとは別に、盤と駒を使って挟み将棋、回り将棋、将棋崩しなどの別の遊びもあります。
トランプは「正しい遊び方」はなく、ババ抜き、ポーカー、七並べや、手品やカード投げといったものにも使われます。

太極拳もこれに似ています。
すべての動作は武術的な技であり、その順番は(37式の場合)コンビネーション、連絡技としての意味をもっていますが、それだけではありません。養生、気功などの面もありますし、その原理自体がある種の生き方を示唆しています。それは老荘思想と呼ばれるタオイズムの流れに沿ったものです。

技からは手話やハカダンス、フラダンス、神楽といったものがジェスチャーの中にメッセージを込めるように、ひとつひとつに寓意が読み取れます。そうした点はトランプの前身ともいわれるタロットカードにも似ているかもしれません。

タロットはバラバラにシャッフルしますが番号順に並べると愚者が魔術師に出会い世界を知り、また愚者に戻るという円環の物語でもあります。
東洋では牛を悟りと見立ててそれを男が手に入れるまでを描いた十牛図という絵がありますが、これもそれに近いでしょう。
どちらもすごろくのような上昇一直線構造ではなく「あがり」は「ふりだしにもどる」に近い意味を持っています。
それは禅でいう「未生以前の我」に還ること、魔術師の知恵と技を得た上で赤子の無垢に戻ることであり、タオ(道)とはどこかにつながる手段や通過点ではなく、ただ歩き続けること自体が本質の周遊、遊行であるという思想です。

技に含まれる寓意は動作が持つ原理と、技に付けられた名前の両面から推察できます。
理解度が深く一動作から多くの原理を学んだ人は同じ動作から多くの教訓と物語を引き出せます。なので、型は読み手によって筋の変わる物語でもあります。また、その人の関心によるバイアスでも意味は変わるでしょう。

たとえば第一の動作である起勢。
名前から読み取れるのは勢いが起きるということ。
動作から読み取れるのは「どうやって勢いが起きるのか?」ということです。

具体的には両足に均等にかかっていた体重が左が虚になったことでバランスが崩れ、結果として体がかしぐ。その起き上がりこぼしのような揺れによって最初の勢いが生まれます。

ここから読み取れる寓意は

「何かの運動の発生は何かの欠落から発生する」
「きっかけなく意思の力で始めたものは流れに乗らない」
「不動のものからは何も生まれない」
「虚になった部分が次に実になる」

などです。

これは私が勝手に言ってるのではなく、一応「太極(完全性)は無極(不完全性)より生ず」「陰極まりて陽となる」などと標語化されています。

起勢はその次に手がふわっと上がり、引き付けられますが、たとえば両手をつかんでもらったとき、力を入れて引き付けると自分が崩れ、あえて引き付けようとしないことでむしろ相手が崩れます。
そして手を下す動作は、相手にファイティングポーズをとってもらい、その拳をそっと包んでやると相手の戦意を喪失させます。「まあまあ」となだめる動作、ハンドサインがそのまま自他に対して弛緩を促す技になっています。

得ようとしないことで得る。先に自分が緊張を解くことで相手もつられる。
この寓意からどんな物語が読み取れるでしょうか?

人により、ははあ、これは上司と部下の関係の話だな、とか外交や政治のテクニックだな、とか、恋のかけひきや親子関係の話だな、と思うでしょう。どの≪翻訳≫も正解で、これは何にでも共通する法則性の話です。それをタオと呼ぶこともできるでしょう。

また三十七式はもともと百動作以上あったものを縮めたものですが、それにしては同じ繰り返しが四回も出てきます。
これは花咲か爺さんや舌切り雀で「良いお爺さん」の話のあと、途中までほぼ同じだけれど結末の違う「悪いお爺さん」「大きいつづらを選んだ場合」が語られるのに似ています。途中まで同じ流れでも、ほんの小さなきっかけで物語が別の方向に流れていくこと、あるいは昨今流行りのタイムリープもののような歴史のイフ、アナザーストーリーを開示しているとも取れるでしょう。

さて、面白いのは三十七式では虎が出てくる技が三つもあります。

抱虎帰山
退歩跨虎
彎弓射虎

の順番です。
これはどう物語を読み取るのでしょうか?

まず抱虎帰山ですが、文字から読めば「虎を抱えて山に帰る」です。
これだと虎の子(貴重なもの)を手に入れた、というような話にみえますが、なぜ山なのか? 虎の子が貴重なのは高く売れるからで、だったら街に帰らないと意味がないのではないか? という疑問が沸きます。
そして動作から読み解くと十字手で虎を抱える動作はあるのですが、そのあと、ふりかえって手放しています。ということはこれは「抱えた虎を山に帰す」と読み下すのが正解と思われます。
武術的用法も土俵際のうっちゃりのような技で、ずっと虎を抱えている感じではありません。

ここでいう虎は危険の象徴のようなものでしょうが中島敦の「山月記」のように内なる猛りのようなものとも取れます。それを山に帰す。自分の中の危険性を手放して自然に返し客体化する、という読み解きが出来ます。

次に退歩跨虎ですが「跨」はまたぐ、またがるの二つの意味があります。
虎にまたがる、だと乗り物のように乗りこなすことで「騎虎の勢い」を得る、一度山に帰した獣性と再び合流する、とも取れます。鄭曼青の西洋人のお弟子さんはまたがる解釈をとっており「ride the tiger」と訳しています。
ただ、動作的には解釈が難しいのは、虎にまたがっているにしては歩幅が狭い、またがっているように見えないという点です。

一方、またぐ、と読んだ場合ですが「虎の尾を踏む」という表現がありますが、寝ている虎を起こさずに、そっとまたいでやり過ごすという逆のニュアンスになります。動作的にはこちらの方が納得できそうな気もします。

最後に彎弓射虎は弓で虎を射るという意味ですが、動作は文字通り矢をつがえて引き絞るのに似ています。
一歩下がって虎をまたいでいたのなら、これは位置関係に無理がなく、前に虎がいるはずですからそれを射たというだけです。
しかし虎にまたがっているのなら、自分のまたがっている虎を弓で射るという矛盾が生まれます。

もし、虎は自分の中の獣性という解釈であるならば、自分の乗っている虎を射ようとしても射られないというパラドクス自体が寓話的、一休さんと屏風の虎のとんちのような公案としても取れます。
自己は最も身近な他者であると同時に、最も遠い存在である、という教えともいえるかもしれません。
というのも、弓は引き絞ってからリリースすることで射出されますが、型の動作の中では引き絞ったものの射出せず、そのあと弦の弾力をブルワーカーのように戻し右拳を左掌で包む動作になってしまうからです。これは射たずに矢をしまったようにも見えます。

またがる説を取るならこの話は、自分の中の折り合いのつかない獣性を閉じ込めるのではなく、檻から出して山に返してあげた。そしてそれを乗りこなして活用できるようになった。そしてそのときには虎は射つべき敵ではなく自分の一部なので射たなかった、という物語が読めます。

あるいは『弓と禅』でオイゲン・へリゲルが「射を習うということは自己を習うことである。自己を習うということは自己を忘れることである」ということを言ってしますが、弓で己自身の分身を射るということは殺すことではなく自我の再統合、合一とも解釈できます。
その結果、技の流れとしては一番最初に出てきた搬攔捶につながるのですが、最初の搬攔捶と最後の搬攔捶はやや趣が違います。退歩跨虎からの流れの勢いが乗り、野性味、勢いが加わっています。

そのあと収勢という勢いを収める動作があるのですが、その冒頭は虎を抱きしめる動作、十字手と同じです。
はじめは同じ形から虎を山に返していたのが、最後は虎を自分のおなかの中に収めています。これはとても象徴的な終わり方だと思います。
物語が一周して冒頭のシークエンスに戻り「合太極」となる。そのとき、これもまた手放すことで得るという自己の再生の話だったのだと分かる。なかなか感動的だと思うのですがどうでしょうか。

まあこの「太極拳は物語として読める」というのは私が勝手に言い出したことで、そういう伝承があるわけではないので、信じるかどうかはみなさんにお任せします。
太極拳のすべての動作はタロットの大アルカナにあてはめられるとか、陳家溝に太極拳を伝えた旅人はジプシーで、身振り手振りでカードの意味を伝えたら拳法として定着したとか、タロットは武術の秘伝書だったとか、そういうことを言い出したら流石に止めてください。

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