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2000年前からすれ違い
教えを乞う人、拒む人
「メノン」というプラトンの著作がある。
ソクラテスと、利発で美しい若者メノンが「徳(アレテー)」について対話する作品だ。
「徳は教えられるものか」と問いかけるメノンに対し
「そもそも徳とは何か」と問いかけかえすソクラテス。
荒木飛呂彦作品なら「おっと会話が成り立たないアホが一人登場〜」と言われるタイプである。
この短い対話篇が興味深い点は、「正解を教えてほしい」メノンと、「自分で考えられるようになってほしい」ソクラテスが交わらない平行線をたどり、結局交わることなく終わりをむかえるところだ。
実際の生活でもこういうすれ違いはある。
そしてそれは2000年以上前から起こっていたことなのだ。
「メノン(教えて君)」は何故生まれるか
ゴルギアスから「かくあるべし」を学んだメノンは、正解を自分の外に見出す。そしてそれは考えるのではなく決定されたものであり、良し悪し、そして正しさは外部から規定される。
この、基準を外に置く姿勢こそがメノンのような硬直したマインドを育んでしまうのだ。
学びの姿勢
「そのくらい自分で考えろ!!」と突き放されることは、随分少なくなったように思える。
学業や仕事だけではなく、たとえばゲームなんかでもチュートリアルはずいぶんと手厚い。
UXの観点でいうと、随分と進化してきた。しかし「聞かずとも教えてくれる」環境、「これの正解はこうだ」と提示される環境に長らく居たのであれば、自ら考え学ぶのではなく与えられる答えを正とする思考になっていても仕方がない。
教えの姿勢
教える側も同じことがいえる。
考える力をつける、コーチング的役割が求められる場面であっても一つの解とプロセスを伝えるティーチングになっていることはないだろうか。
これも過保護なチュートリアルが求められてきた環境では無理からぬことだ。
目の前の課題を最短で、が視野を狭める
効率を至上命題とし、課題を最短で解く。そこに最大の価値を見出すのであれば、自ら学習することはずいぶん遠回りに感じてしまうだろう。
この態度が視野を狭め成長を阻害する。
いつも心にソクラテス
ではどうすればいいのだろうか。
教えるにしても教わるにしても、考え、考えさせるよう仕向けること。そのために余白をつくること。
そう、結局は余白をつくらなければ本質を掴む時間さえ溢れていってしまうのだ。
心にソクラテスを飼い、疑問をもとう。疑問をなげかけよう。
表面に惑わされず、流転する万物を心で理解し、行動していく。
プラトン文学から学べるそういった姿勢をもって世の中と向き合えば、案外窮屈ではなく楽しい世界が広がっているのではなかろうか。