生まれてくるものを信頼する“計画しない“プログラム DTA Learning Camp
2024年8月。Door to Asia Learning Campと題して、アジア数都市の大人+子どもたち+カンボジアの首都プノンペンの若者たちとともに、カンボジアの中部・コンポントム州のクイ族のあるコミュニティで1週間“ともに暮らさせてもらう“プログラムを実施した。
プログラムとは呼ぶものの、実際には“事前に詳細に計画することを手放して、その土地と、そこを訪れたひとりひとりの内側から生まれてくることを信頼する“という選択をした。果たしてそこから何が生まれたのか。これはその宝もののような時間の記録、その1。物語は長く続くので、目次の☆から読んでいただいても。
はじまりのひとつ前・Door to Asia 2022
コロナの大波で世界が揺らいだあとの2022。Door to Asia Cambodia をコンポントム(Kompong Thom)州で実施した。
コロナの時代が浮き彫りにした、世界の隅々まで張り巡らされた巨大なシステムと、突如として起こるその機能不全。一方で、地に根を深く広く張った小さなシステムを手放さない人たちが見せてくれた揺るぎなさ。そのどっしりと深く根を張った有り様を見せてもらいに行った。
それまで、大きなもの、遠くのもの、外のものに向きがちだった世界。それが正解だと思っていた。けれど、根を張る人々の領域には、目に見える枝振りの豊かさとは全く違う、地中に自在に広がるようなゆたかさがあった。
カンボジア国内でも「何もない」と言われるコンポントム州の真ん中で私たちが見せてもらった、既知の形とは違うゆたかな世界。でも、その世界に生きる人々は自分たちのあり方を「もう古くて、今は求められていない」といった。
でも、我々にはむしろ新しく、今の世界がまさにそれを必要としていると思った。リジェネラティブ農業、伝統的循環農法、コミュニティの在り方、生態系の中での自己理解、他者とのつながり方、起こる出来事のへの反応・受け止め方。農や生態系、コミュニティのみならず、教育、個人や社会の在り方の探求など多岐にわたるテーマで世界の研究者たちによって新たに実証され、提唱され啓蒙されていることが、この地では日々の営みの中で、ある種の「普通」として実践されている。理論ではなく、日々の営みとして目の当たりにしたそれは、温かく、どこか身体の深いところで懐かしく、大きな安心に包まれるような“生きる瞬間“に満ちていた。そして、世界が抱える“うまくいかなさ“を解きほぐす優しい鍵が、ここにあるような気がした。
どんな場所でも、目の前に長くあるものは見えにくくなる。都市にも、地域にも、それぞれの美しさがある。異なる技と思想を持つそれらの人たちが対流したときに、互いの美しさが鮮やかになり、同時に“その出会いによって生成されるゆたかさ“が出現する。さながら温度の違う海流が流れ込む場所は豊かな海になるように。その時の美しい出来事たちはこちらから。
そして、Learning campへと
2024年。Door to Asia Cambodiaで見つけた優しい鍵の次の可能性を探している頃。カンボジアを含めた東南アジアの酷暑に焦りを覚えた。
東南アジアだけではなく、日々起こる世界の変化は険しさを増している。地球環境も、この世界も、待ってくれない。この先の数年きっと、環境も経済も、もっとハードモードになる。そういう時こそ、対流の力が真価を発揮する。
対流が生み出すゆたかさを加速させるなら、今だ。
2022年に私たちが学ばせてもらった地域の底力は、都市部では評価されていない。
というか、その存在がまず知られていない。
2022の後、地域に足を運んでくれる仲間は増えた。でも地域の魂を都市に持っていくことは難しい。地域の魂の源である森や風土や営みはプレゼンでは伝えられない。この土地にきて初めて、彼らの本当の大きさがわかる。ここに次の働きどころがある気がした。
集結したキャンプの仲間
カンボジアでは社会の年齢構成が圧倒的に若い。この社会を新しいアイデアとエネルギーで縦横無尽に駆け回る次の社会の主役たちがこの“優しい鍵“の存在を知っていることは、未来にとってきっと大きな助けになる。それをこの地で学ばせてもらいに行こう。そして、行くならば全世代で。子ども→青年・若手→大人・中堅→おじい、おばあへと続くなだらかな年齢スロープはかつてどの地域にもあり、今どの地域からも失われようとしている。だからこそ、幼から老まで全世代が一緒に過ごす日々を改めてつくる。
国外からくるクリエイティブ陣も子どもたちも、国内から参加する若手も中堅も、森とともに暮らすクイ族の皆さんの懐で“そこにいる、そこで生きる“をみんなでやる。その日々をLearning Campと名づけた。
日々、意識しなくても、私たち一人ひとりの周りには、常に小さな生態系が存在する。人が集まり出会うとき、それぞれの小さな生態系も近づいて新しい土壌をつくる。Campをともにする仲間たちが決まっていく過程でも、能力や条件より、個々の生態系のつながりが重要な役割を果たした。どんなことをするのかよくわからないけれど、あの人がきっと意味があると声をかけてくれたから行ってみる。プログラムの内容よりも、誰か1人への信頼が入り口になる。土の下で木々が根を伸ばし合って界が形成されるようにメンバーが集まった。
土の人、風の人
今回のCampには2つの異なる性質の人たちがいる。私たちを受け入れてくれるクイ族のコミュニティの皆さんと、その彼らの世界に入らせてもらう、訪れる側の私たち。
この2つの性質の違いを、玉井袈裟男さんの『風土舎の設立宣言』からお借りして「土の人」と「風の人」と呼んだ。それぞれが意味するところは、ぜひこの美しい宣言を読んでください。
クイ族のコミュニティの人々はまさに「土の人」。この大地に優しく深く根を張って生きる姿で、今の世界の当たり前とは違うもうひとつの大切な論理の存在を教えてくれる。
そして、もうひとつの「風の人」。
Leaning Campという名の風に乗り、それぞれ異なる性質の風が、この土地に来た。
国内外のクリエイティブ。何らかの方法で、自らとその周囲の世界を表現する人たち。
2022年のDoor to Asia Cambodiaに参加したクリエイティブたちに「この人を誘いたい」とピンと“来られちゃった”次なる仲間たち。そして、目の前の出来事を全力で楽しむ、生き上手たちでもある。
あえてプログラム設計をしないという特殊な枠組みのなかで、1人の人間としてその場にいてくれる姿を思い浮かべていくと、導かれるようにメンバーが決まった。Door To Asiaという森の根っこが、新たな仲間たちへとヒゲ根を伸ばしていくようだった。
続いて、国内から集まったユースメンバー。
プノンペンの大学生、院生、社会人、小学校のボランティア教員の総勢15名。
こちらもDoor to Asia 2022に参加した仲間たちを介して声をかけ、事前に対面でのミーティングを重ねた。ひと口にプノンペンの若者と言っても、育った地域、環境は全く違う。親の代から首都育ちもいれば、大学進学で地方から上京した面々もいる。
PCや他言語を多彩に操り、都市部の優秀層である彼らが一様に驚いたのは「このプログラムでは私たちが学び手である」ということ。何かを教えることも、達成すべきミッションも、プレゼンテーションもない。その代わり、あなたたちがその場に身を置いて学んだこと、感じたこと、受け取ったことの全てが成果であり、未来への重要な鍵になるんだ、というメッセージを現地に来るまでに少しずつ理解してもらった。
最後にこのCampの要のひとつ、子どもたち。
こうしたプログラムに子どもも一緒に参加する機会は少ない。でも、地域の小さな宇宙としてのコミュニティには、子どもの存在が必ずある。そして重要だ。
6、7、9、10、13、16歳、で風の人側の最年少。ユースメンバーの最年少は19歳。さらに下には、地域のおじいおばあたちと一緒に毎日キャンプにくる子たちがいる。年齢のスロープが切れ目なくつながった。そして、子どもたちは一人一人が天然の表現者でもある。彼らの目を通してこの世界がどんなふうに見えているのか、彼らの感性感覚が何を捉え、どう表現されるのか。きっとそれはこのCampにとってとても大切。
☆土と風のあいだに
今、この世界がバランスを欠いている根源は、「土の人」と「風の人」の距離が開いていることにあるのではないか。現在の社会構造の中で「土の人」が激減し、「風の人」はますます増えている。そして、資本主義経済の中では「風の人」の比重が極度に高く、目に見える形で表現されにくい「土の人」の存在は顧みられない。
でも、土の人の減少は、土地土地の小さな美しい宇宙の消失につながる。銀河規模の宇宙のことだけでは語りきれないものが、この世界には数限りなくある。特に、気候の変動や地球環境への負荷を軽減する在り方を考えるとき、土地土地の小さな宇宙を知る人たちが重ねてきた観察と実践が何よりも効いてくる。そして、風の人たちは、それを学び、理解し、伝え、その叡智を届けることに長けている。
だから、土の人と風の人、その2つが同じ時間と空間をともにする場をこのLearning Campでつくってみる。土の人たちの叡智は、体験と空間を介してしか届けられない。
玉井さんの詩にある「和して文化を生むものを」を、再構築したい。その向こうに、私たちを取り巻く小さな宇宙の実存を確かめたい。その願いをセブ島から参加してくれたHappy GarajeのMarkとJoがこれまた暖かく、美しいキービジュアルにしてくれた。
集い、出会う「土の人」と「風の人」。
そう、この土地の自然や精霊や音楽や生き物たちや星々に囲まれながら、もう一度出会いたい。その出会いの瞬間、そのはざまにキラリと光る星が生まれる。
プログラムしないとはどういうことか
プログラムしない。
最初から狙っていたわけではない。準備を進める過程で、土と風の性質の違いが明確になる場面が多々あった。その度ごとに対話を重ね、それぞれの「心地いい形」を把握した上で、今回のLearning Campではどちらを大切にするかを考えていったら、細部まで計画し切ることを手放す形になった。さらにその結果として、何かがそこで生まれるための余白が生まれ、その場で自然に流れが立ち上がってくる、ということが実現した。そしてCamp後の振り返りや報告の場を通じて、その起こる出来事を事前にすべてコントロールしない、生まれてくるものを信頼するあり方がこのCampの最も重要な要素だったと教えられた。
「し切らない」に表されるように、完全にノープランだったわけではない。こういう時間になるだろうというイメージは明確にあった。「土の人」コミュニティのリーダーズと高床の下で、目の前の土と空を見ながらこういう空間、こういう空気で、きっとこういうことが起こるだろうね、と話していると、Campの始まりから終わりまで、1日ごとが物語の章立てのように鮮やかに立ち上がる。
それぞれの人たちが頭の中で動き出し、座って話す輪のなかで1日ずつが鮮やかに描き出されていく。それは、例えばこんなふうに。
ただ、その立ち上がって自在に動き始めるイメージを、スケジュールという形で表現することはとても難しかった。まずこの物語を何時に、何時間くらい、というブロック状に切り分けることが難しい。さらに、立ち上がるイメージの中では同時にいろいろなことが起こる。あちらで楽器を奏でる人、こちらで料理を作る人、何人かは木陰で話をし、別のある人は遠くの空を眺めては手元のノートに何かを書いている。この同時に起こる出来事の一つ一つを表現するには、エクセルの罫線の内側は窮屈で、せっかく立ち上がったひとつの生き物のような物語が、その命を失ってしまうような気がした。
一方で、この高床の下に一度もきたことがない人にとっては、この物語を事前に同じように見ることが難しい。1日ごとにどんなことが起こり、どう過ごすのか、あまりにわからない。わかるための手がかりがない。
こういう小さな細部にこそ、「土」と「風」をめぐる世界の違いがあらわれる。
土の面々はその場所の小さな宇宙に関する情報を持っている。天候、空間、雰囲気、関係性、そこにいるであろう人。そういう手がかりを手札として、イメージを立ち上げる。
では、そうした手札を持たない風の人々に、どう伝えたらいいか。万能と信じていたエクセルシートは失敗し、そこから対話を重ねて、あえて1日ずつを小説のように、物語とイメージで伝えてみよう、という実験をした。風の参加者たちに、舞台の台本の初期の構成案を読んでもらうような形。そこで動く実際の演者は、自分たちだ。
その語られた台本を、コーディネート勢のUddamとSochendaがこちらのように筆記して、まとめてくれた。
1日ごとのリズムと絶対に外せない大事な高まり、流れだけを共有する。どのタイミングで、というのは、その時の、その場の、空気に委ねる。
大事な数、例えばホームステイのお家、ステイする人数分の蚊帳とゴザ、森への移動に必要なトラクターの数は確認する。ごはんはたくさんつくるから、ある分をみんなで分ければいい。分け合えば、足りなくなることはないよ、と師匠たちは言う。
そして、実際に足りなくなる心配など、全くなかった。
壁のない場所だから、壁はつくらない
今回は子どもから大人まで全世代が、日中はほぼ全員、屋外で一緒に過ごすCamp。
あえて、子ども向けにはこれ、大人はこれ、というカテゴリを設けなかった。
その理由はかつてクイ族の若きリーダーの1人から聞いた言葉にある。
だから、子どもも大人も同じ場所で同じ時間を過ごす。その中でそれぞれの居場所や役割を見つける。生まれてくる瞬間を一緒に体感すること。それぞれの有り様からお互いが発見すること、学ぶこともものすごくある。
物理的に壁もないところで過ごさせてもらうのだから、意識の中の年齢や世代の壁も超えていきたい。いや、きっと超えていける。
この一連のプロセスを携えて、いよいよDoor to Asia Learning Campがはじまった。
物語の本編は、この次の記事で。ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。
つづく。