北京清華大学におけるセクシュアル・ハラスメントの告発——龍緣之(モナ)さんによる#MeToo (解説:深沢レナ)
この文章は、2021年に台湾の活動家である龍緣之(モナ)さんが自身のFacebookでセクシュアル・ハラスメントの告発を行ったときのものです。告発後、約二日後に彼女の投稿は中国でBanされました。オリジナルの文章では加害者の氏名が明記されていますが、日本を拠点とするわたしたち看過しない会では、加害者の特定ではなく、こうした事例が存在したことに注目することが重要と考え、伏せました。
*モナさんの原文はこちらから読むことができます。
#MeToo
龍緣之(モナ)
【名前を公開します。わたしの指導者は清華大学教授のA氏です。】
博士課程の卒業前、わたしは指導教授からセクシュアル・ハラスメントを受けました。長いあいだこのことに心を悩ませてきたのですが、ここに書き留めることで、わたしはこの件を終わりにしようと思います。
2018年4月、わたしは北京清華大学のSTSの5年生で、論文の提出や口頭試問の準備に追われていました。
指導教授(A氏、男性)は中国の有名な学者で、彼のゼミに所属する博士学生や修士学生は多く、そのほとんどが女子学生で、「A先生は女子学生しか受け入れない」という冗談が交わされているほどでした。彼は学生を自宅に呼んで指導することもあり、わたしも彼の家を何度か訪れたことがありますが、彼の妻はいつも在宅しているようでした。わたしは彼の妻と娘の存在を知ってはいましたが、彼女たちがわたしたちと一緒に過ごすことは一度もありませんでした。
その年の4月、博士論文の仕上げにかかっていたわたしは、A氏から論文指導のため自宅に来るように言われました。はじめは書斎で、彼はパソコンに簡単なメモを取りながら、わたしと30分ほど話をしました。わたしは真剣にメモを取り、携帯のレコーダーで録音もしていました。それから彼はリビングに移り、わたしの卒業後の計画について話し始めました。
彼はソファに座り、わたしに自分の左側に来るよう促しました。論文の話を続けながら、彼はわたしを賞賛し続けました。わたしは引き続きメモを取り、レコーダーも回していました。すると、彼は突然、論文の話をしながらわたしの右耳に触れてきました。わたしは恐怖に襲われましたが、真面目にノートをとり続けるふりをしました。彼は変わらずわたしの耳に触れ、撫でまわし、ときどき息まで吹きかけてきました。わたしは平静を装い続けました。その間も彼は論文の話をし続けていました。
それから彼は、わたしの肩を両手で強く掴み、ソファに押し倒そうとしました。わたしは必死に抵抗し、力をふり絞って座り続けようとしました。レコーダーは回り続けています。わたしたちは声を出さず、無言で格闘しました。彼の力はとても強く、わたしは全力で抵抗しなければなりませんでした。わたしは彼を見ず、物音も立てませんでした。彼も何も言いませんでした。
数分後、彼はやっと諦め、興醒めした様子でソファーにもたれかかりました。わたしが平常心を装い、何気ない態度で仕事の選択肢について話すと、彼はしぶしぶ対応しました。 わたしは荷物を片付け始めました。焦っていることを悟られないようにしつつ、一刻もここから早く立ち去りたい一心でした。彼は玄関までわたしを見送りましたが、わたしたちはあたかも何事もなかったかのように儀礼的にふるまいました。玄関に向かう間も、わたしはまだ台湾の学界について話していました......彼は簡単に自分の考えを述べ、わたしは「先生、ありがとうございました。では失礼します!」と言い、ドアを閉めました。
わたしは平気なふりをして彼の家を後にしたけれど、実際には、たったいま直面した出来事を頭の中で整理することができませんでした。
この時期は、博士論文を提出する重要なタイミングでした。こうした状況に置かれたことがない人に、この時期の重要性を理解してもらえるかはわかりませんが、例を挙げるとすれば、この時期以降(あるいはそれ以前から)、わたしの書類や手続きはすべて指導教授にサインをもらわなければならず、彼のパソコンを通じて操作する必要がありました。もし指導教授のサインがなければ、卒論の提出も成績証明書の申請もできず、卒業のためのあらゆる手続きができなくなってしまうのでした。
A氏の家を出たあと、わたしは自転車で10分かけて寮に戻り、すぐに論文の修正に取りかかりました。寮でわたしを見かけた人たちは、その日わたしが何をされたのか、何も気づかなかったと思います。外から見れば、わたしはただ集中して作業しているように見えたでしょう。それから毎日、わたしは部屋から出ることなく、ひたすら論文の修正に没頭し、卒業にむけた準備を進め、三食の食事も自室の机で済ませました。
ある日、当時の友人から声をかけられて、急にわたしは彼に今回のできごとを打ち明けたくなりました。彼はわたしを後押ししました。「今話さないともう話せないかもしれないよ」。彼に励まされ、あの日起きたことを話すと、わたしの目からは涙が溢れてきました。
もし、あのとき彼に話していなかったら、わたしはこの出来事のことを忘れてしまっていたかもしれません。それは、この出来事が大したことではなかったからではなく、自分が前に進むために意図的に忘れていたかもしれない、という意味です——これまでと同じように。これまでにもわたしは何度となく、A氏の女子学生や女性の同僚、そして自分に対する不適切な言動を、わざと見過ごし、深く考えないようにしてきました(A氏はわたしたちに会うたびに、抱きしめたり、首や足に触れることがありました)。わたしの目標は学位を取得することでした。ちゃんと卒業したかったですし、何としてもその年に卒業したかったのです。わたしの家族には、毎年の北京―台北間の航空券や交通費、大学の授業料、北京での生活費、さらには毎月交換が必要な北京でのエアフィルター代を支払い続ける余裕がありませんでした。両親もわたしも、次第に健康状態が悪化していきました。一度論文提出の機会を逃せば、卒業が半年または一年延期され、中退を余儀なくされる可能性もありました(この年、清華大学は修業年限を改定したのでした)。当時32歳の学生だったわたしにとって、ここで卒業の機会をのがすことは、キャリアに多大な影響を与えることを意味しました......。
中国では、博士課程の研究が、「師弟関係」のもとで進められます。教員の権力は、他国と比べ物にならないほど強大なのです。 さらに(みなさんご存知のとおり)、中国では特定の個人たちが社会を統治しており、あまりにも多くの社会問題が存在しています。何事も、「関係(人脈やコネ)」 がなければ、天に昇るのと同じくらい困難なのです。 どんなに些細な問題でも積み重なれば、大きな崩壊を招きます。 崩壊はありふれていて、簡単に起こりえますが、何の役にも立ちません。わたしたちが生き残るための唯一の方法は、強くなり、戦うことなのです。ちょうどその頃、#MeToo運動が中国にも波及していましたが、残念ながら、中国社会にはジェンダー平等の意識が低すぎる・・・というより、存在していないと言わざるを得ません。「セクシュアル・ハラスメント」や「性的暴行」といった概念は、ほとんどの人にとってはなじみの薄いものなのです。中国では、こうした問題に対する人々の感情や認識を、一般的な基準で考えることはできません。博士課程の指導教員(通称「博士指導教員」)の力は非常に強大で、彼らは在校生や候補者の生殺与奪の権を握っているだけではなく、学校の同僚やスタッフ、若い教師をも支配しているのです。そんな相手をいったい誰が怒らせるでしょう? 大学教授という肩書きだけで、無法な存在にさえなり得るのです。
偶然にも2017年から2018年の間に、「三聯生活週刊」などの主流メディアが「博士指導教員はどれほどの権力を持つのか」という特集を組みました。博士課程の学生が指導教員との関係に悩み、自殺するケースが相次いだからです。
わたしの話に戻りましょう。
2018年、わたしは清華大学の女子寮(W棟・紫荊アパート)に住んでいました。当時、わたしとクラスメートたちとの関係は、良くも悪くもない微妙なものでした。誰もがリスクを抱え、戦々恐々としていたからです。わたしの卒業プロセスは順調に進んでいました。進捗報告、中間審査、予行口頭試問、外部審査、口頭試問、外部審査委員からの質問に対する回答書の作成、そして大学院への提出。最後に大学院の先生方(非専門)の確認審査を経て、ようやく成績表など多くの書類をそろえてから、卒業申請ができるのです。これは、間違いなく非常に競争の厳しい道のりでした。
今回自分の身に起きた事件について、わたしは口を閉ざしていました(あのとき、もしわたしが抵抗できなかったらどうなっていたか想像すると、今でもぞっとします)。この件を公表することは自分のためにならないとわかっていたからです。
わたしは指導教員に心底嫌気がさしていましたが、卒業のために、数え切れないほどの面倒な手続きをこなさなければなりませんでした。そのため、吐き気をこらえながら、WeChatや電話でA氏に連絡をとりました。あんなことがあってもなお、彼は署名など必要な手続きのためにわたしを家に呼びました。 わたしは同行してくれるクラスメイトの女性を探しました。わたしはA氏と目を合わせることはできませんでしたが、なんとか当たり障りなく接しました。論文の謝辞でも、わたしはまだ「指導教員に感謝」していました(清華大学の論文形式は非常に格式ばっているのです)。口頭試問での発表の際も、わたしは学内外から集まった大勢の教授たちの前で、A氏の行為を暴露したい衝動を必死に抑えました。大学がわたしの論文を受理し、卒業に必要な資料もすべて受け取ったと知ってからは、わたしは彼に対してあからさまに冷たく接し、わざと遅刻するなどして恥をかかせました。その年の6月はA氏の60歳の誕生日で、門下生たちは「出版記念セミナー」という名目で別荘を借り(当時、政府は汚職撲滅に取り組んでいたため、還暦祝いという名目での活動は好ましくなかったのです)、みんなでおそろいのTシャツを着て、一泊二日彼と過ごすことになっていました——TシャツにはA氏の顔の上に「これは運命、これは縁」と書かれていました。そのうえ特注の高級バッグも配布されました。
夜には、地下のカラオケで、A氏と女子学生たちが遅くまで歌って遊んでいました。わたしはまた嫌な目に遭わないように、早めに女子寮に戻り、二段ベッドの上段に横になりました。すると、OGの女性がやってきて、わたしやそこにいた学生たちに、「夜は必ずドアを閉めて施錠するように」と注意しました......わたしは不思議に思い、どうしてそんなに警戒しなければいけないのか聞いてみましたが、わたしの問いは無駄に終わりました。
わたしは抵抗するように、ベッドに横たわり続けました。
このとき、わたしははじめて目が覚め、世界の現実の姿を認識しました。A氏は中国で有名なフェミニスト学者で、科学史やフェミニズム史の先駆者とされています。 「フェミニズム」や「セクハラ」をネットで検索すると、彼の本やインタビューがたくさん出てきます。彼は誇らしげに「セクハラとは何か」について語っていたのです。「フェミニズムとは何か」「セクハラとは何か」という議論は、彼と彼の女子門下生たちによって作り上げられたと言えるでしょう。さらに、ジェンダー学会も彼の女子門下生たちが設立し、彼は名誉会長として迎えられたのです。
これが中国の現実です。こうした権力関係を理解できないのだとしたら、その人はよほどナイーブか、よほど運がいいかのどちらかでしょう。世間知らずです。
わたしもかつてはそんな世間知らずでした。
口頭試問の前、先輩や後輩の女性たちが、ときどきわたしの部屋にやってきて歩き回っていました。わたしとクラスメイトとの関係は、良くも悪くもないものでした。みんな自分の身を守るのに必死だったからでしょう。気を尖らせていました。ろくに話したこともないような人たちが、なぜわたしの部屋にやってくるのでしょう? わたしはそんなに単純ではありません。わたしのことを心配して、友達になりたいから? そんなことはあり得ませんよね.....一日中指導教員に抱きついているこの女子学生たちは、一体何をたくらんでいたのでしょう?
これらの疑問は今も解決していませんし、考えたくもありません。「フェミニスト学者」のグループの女性たちについても考えたくありません。なぜA氏のゼミでは毎年女子学生を募集するのか、どうして彼女たちは卒業後も清華大学に戻ってきて、A氏と「共同指導」を行い、A氏と密に接する機会をもとうとするのかについても考えたくありません。
わたしが後輩からA氏のセクハラについて教えてもらったケースは二件だけでした。1つ目は、A氏が彼女の胸に頭を押しつけたこと。もう一つは詳しくはわからないのですが、ある女子学生が「先生のところに一人で行くのはわたしも嫌だ」と言っていたこと。これ以上の説明はいらないでしょう。後輩たちはいつもと様子が違っていて、精神的にもどこか不安定でした。
後輩によると、A氏はわたしたち学生だけでなく、修士課程や博士課程の受験生も食い物にしていたといいます(この時点ではまだわたしが受けたセクハラについては何も話していませんでした)。受験生の親が実名でセクハラを報告したケースも少なくありません ......しかし、上の人間たちが結託して被害を隠蔽しています。これが中国の現実だということは、誰もが知っていますよね。
わからないことはあまりにも多く、世界を完全に見通すことなどできないのでしょう。
わたしは卒業し、卒業式では清華党委員会書記と一緒に写真を撮ってもらいました。その瞬間まで、自分が知っていることをすべてぶちまけてしまうべきかどうか、まだ悩んでいました。でも、いったい何を話せるでしょう? 声のかぎりに叫んでも、わたしの言うことに耳を傾ける人は誰もいなかったのではないでしょうか? わたしが正義を求め続けたとしても、ただ笑われるだけではないでしょうか? わたしの親友が統合失調症になった一因は、A氏が己の恥ずべき性的欲求と権力を振りかざし、女子学生をレイプし、男子学生にはガールフレンドを献上するよう強要したことにあったのではないでしょうか?
こうした経験のせいで、わたしは学位を取得した後も自分自身を少しも誇りに思えませんでした。それは、恥や無能、妥協と引き換えに手に入れたものだったからです。また、わたしは自分自身に、「A氏はなぜあんなことをしたのだろう」と、数えきれないほど問いかけてきました。もし彼があんなことをしなければ、わたしは今もまだ世界的に有名な名門校に通い、指導教授に称賛されているという幻想の中で、何の疑問も持たずに生きていたのでしょうか?
わたしが今回経験したこのことは、数年間にわたって世界各地を訪れ、人々にインタビューし、懸命に学術研究について考えて20万語の博士論文を書きあげることよりも、何倍も難しい、本当の学びであり試練であったと思います。
この文章を書く前に、わたしは心の中にあった恨みや不安、彼の支配に対する恐怖、そしてそれを包み隠していた共犯構造——教員たちや仲間たちへの不満や怒りをすでに手放しました。これまで、学界の人々に会うたびに、わたしは指導教授のことを尋ねられてきました。でも、次からは、曖昧に答えるのはやめにします。なぜわたしが指導教授ともう連絡を取らず(彼はまだわたしに借りがあるけれど、追及する気はありません)、門下生のグループからも抜けてしまったのかを、はっきりと伝えるべきなのでしょう。そうすれば、わたしは以前よりも心穏やかに過ごせるようになるでしょう。わたしは、学界に志を抱いていた新米の博士から、どこにでも自分の道を見つけられる独立した学者へと変わりました。もしかすると、これこそがわたしにとって、本当の「卒業」なのかもしれません。
これがわたしの、北京清華大学にまつわる思い出です。
(初出:Mona Long/Facebook 2021/10/26
中文翻訳:∂
編集:深沢レナ)
解説 わたしたちは痛みによって繋がることができる
深沢レナ
龍緣之さん——通称モナとは、彼女が今年のはじめに来日した際、ヴィーガンの活動家仲間に紹介されて知り合った。わたしは大学院で指導教員からセクハラの被害を受けたために裁判を起こし、ハラスメントの団体を運営している、ということを話すと、モナは自分も大学院で指導教員から性暴力被害に遭って告発したのだ、ということを教えてくれた。
その日モナと話したのは数時間たらずだったが、わたしにとって、「大学院でのセクハラ被害者であり、ヴィーガンであり、物書き」という、共通点がこれほどある存在に会うのははじめてのことで、まだまだ話したいことがたくさんあった。モナの帰国後もわたしは連絡を取り合い、夏には台北を訪れて直接詳しく話を聞くことにした。
はじめてモナの告発文を読んだとき、その内容がわたしの経験とあまりにも似ていることに驚いた。尊敬すべき教員という立場を利用した性暴力、大学院における指導教員の権力の強大さ、論文の提出前という大事な時期を狙っての加害、「指導」という名目で2人きりの空間に呼び出すその手法、そして周囲の“信奉者”たちによる共犯構造・・・。まぎれもなくモナが受けた一連の行為も、わたしの件と同様上下関係を利用して被害者を精神的に追い詰める典型的な「エントラップメント型性暴力」であり、学びたいという純粋な学生の希望と尊厳を踏みにじる卑劣で恥ずべき行為だ。
モナは台北でわたしを案内してくれているあいだ、「いいから!」と止めないと奢るのをやめないほどホスピタリティにあふれていて、わたしがどれだけしつこく質問しても言葉を尽くして丁寧に答えてくれた。モナは自分の被害について話すときも、それに伴う諦めや失望について話すときも、いつも穏やかでにこやかだった。世界各国多くの友人に恵まれ、動物の運動という精神的にタフな仕事においても、常に楽しくあることを心がけているモナが、告発文の中では「考えたくもない」と言い放つA氏やその取り巻きは、モナにどれほどの痛みを与えたのだろう。
台北旅行の3日目、モナに誘われて本屋で行われる小さなコンサートにいった。わたしにとっては数年ぶりのコンサートで、純粋な「芸術」を堪能するのは久々だった。わたしはもともと詩人だが、いろいろあって、最近はもっぱら社会運動にしか興味が持てないでいた。しかし、いざ演奏がはじまるとその力強さに圧倒されてしまった。演奏したバイオリニストは最近飼い猫を亡くしたという。そのバイオリニストは絵も描く人で、会場にはいくつか作品が飾られていた。飾られた作品を見ながら「彼女の演奏からは強い“痛み”を感じた」とわたしがいうと、「わたしが思うに、すべての作品は“痛み”から生まれるんじゃないかな」とモナは言った。
「痛み」は人を遠ざけることもあれば、同じ「痛み」を抱える者同士を繋ぐこともある。わたしたちは、性暴力の被害者だというだけで、言葉で説明しなくても、お互いがどのような「痛み」を経てきたのか感じ取ることができる。セクハラ被害でわたしが失ったものは大きいが、その一方で、他の被害者の「痛み」を理解できるようになったのは大きな収穫だった。
旅の様子はすでに公開した記事に詳しく書いたが、台北の街を食べ歩く間、モナとの対話は尽きなかった。ヴィーガニズムや動物問題だけではなく、日本と台湾における性暴力、社会運動に無理解な男性パートナーたち、家事をしない男たち、モナが日本の留学中に遭遇した痴漢の被害・・・。おいしいヴィーガンフードを囲んで、食べて、語り合う——その時間はある種の自助会のようなものだったのかもしれない。
モナが加害者の名前を公表した約二日後には、この告発文は中国ではBanされた。日本では被害者が告発したとしても国にBanされることはないだろうが、名誉毀損による訴訟という反撃が多くの被害者たちを苦しめている。勇気を振り絞って声を上げたとしても、被害者が名誉毀損で訴えられるという理不尽な現実が横行しているのだ。告発の声をそもそもなかったことにする中国と、被害者の力をじわじわと奪っていく日本――わたしにはどちらも同じくらい狂っているように思える。
わたしは裁判で戦うことを選んだが、モナはこの告発文を書くことで「終わりにする」ことを選んだ。性暴力はその被害者の数だけその後の選択があるべきだと思う。「正しい」選択はないし、あるいはどの選択も「正しい」とも言える。モナの経験が、新しい道を示す一助になることを願い、彼女の文章をわたしたちのウェブサイトに掲載することにした。
なお、今回の訳文掲載にあたっては、中国語翻訳者の∂さんに多大なる助けを借りた。感謝する。
大学のハラスメントを看過しない会は、寄付を原資として運営しています。いただいたサポートは裁判費用、記事・動画作成に充てさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。