栗田隆子さんインタビュー③ 各運動の繋がらなさについて考える〜ヴィーガニズムとフェミニズム
(こちらの記事は、2023年2月に公式HPにて公開したものからの抜粋です。反響が大きかったため、一部切り取ってnoteにて再公開します)
キャンパス・ハラスメント問題、女性の労働問題、貧困問題、動物福祉etc…。そこに問題があるのはわかっちゃいるんだけど、どうして運動ってなかなか進まないんだろう? それって実は、運動内の人間関係がうまくいかないことが大きな原因なのでは?
ホームレスやフリーター、女性の貧困・労働問題など多くの運動に携わり、運動内での差別も身を以て体験してきた栗田隆子さんと、スイーツしながらのんびりお話ししました。
(聞き手 深沢レナ)
* 前編 *
フェミ叩きとヴィーガン叩きは似ている——フェミニズムとヴィーガニズム
——わたしのフェミへの懐疑心の一つに、「なんで動物への暴力には盲目的なんだろう?」という疑問がずっとあるんですよね。女性が痛めつけられているのと同じように、動物も痛めつけられているのに、なぜかそこには蓋をして、焼肉食いながら差別構造について語る、みたいな光景を見ると混乱してしまう。
栗田 生田武志さんの『いのちへの礼儀』を読んで、「種差別」(スピーシーシズム:speciesism)のことを知った。ピーター・シンガーの問題もあるから・・・障害者運動をやっている友達はそこでドン引きしていた。
栗田 『荷を引く獣たち——動物の解放と障害者の解放』っていうアメリカの女性が描いた本が出版されて日本語でも翻訳された。著者はヴィーガンであり障害者でもあって、障害者である自分がヴィーガンを考えるという、ある意味ピーター・シンガーに対抗するという本がある。この本はフェミニズムにも関わってくるので、理解がより深められました。
——へぇ〜読んでみよう。
↑ スナウラ・テイラー著 今津有梨訳『荷を引く獣たち——動物の解放と障害者の解放』(洛北出版、2020)は、既存の運動における「ableism(エイブリズム)=能力主義、健常者中心主義、“できる”主義」と、それによるヒエラルキー構造をあぶりだし、「できなくてもいい」と受け入れることで、「できない」ものたちが敵対し合うのではなく、手を差し伸べ合うことのできる「交差性(intersectionality)」の可能性を探っている。
——わたし最近はハラスメントの運動に集中してましたけど、告発してからしばらくたった頃、一気に動物の運動の方にいったんですね。それは現実逃避でもあったと思うんです。自分よりもっと大変な目にあっている存在を見ていれば、自分の痛みを感じなくて済むから、って。
栗田 その話を聞いて今、とっても切ない気持ちになりました(泣)。
——でも、あるとき若くて熱心な活動家たちの集会にいったときに、「全人類ヴィーガンになるべき」と話してるのを聞いて、ちょっとまずい方向に行っちゃってるな…と感じて。仮にどれだけその思想が正しくても、世界を一色にしようとするのは危険。そこの団体は、道ゆく人に「どうしてあなたはヴィーガンにならないんですか?」と論理的に問い詰めていくタイプのところで、そのやり方もちょっとモラハラっぽいなって…。
栗田 時には「なぜ(この運動が)進まないのか」を考えるのは大事だよね。ヴィーガニズムが悪いとは思わないけど、じゃあなんで運動は進まないんだろう?と。
——大多数の団体はアニマルウェルフェア(=動物福祉)派なので、他人にヴィーガニズム押し付けたりはせず、地道に平和的にコツコツやってるんですけどね。でも、今、動物運動内でも一部の厳格すぎるヴィーガンのことが問題になってるんです。現在の日本でヴィーガンになることはものすごくハードルが高いという現実がある中で、システムの問題を個人の責任に落とし込んじゃいけない。
栗田 しかも個人の話にしちゃうと、工場畜産の形態とかそういう話にも向かっていかないし。日本だとと殺業の話に部落差別が深く関わっている歴史があるから、本当に日本の社会構造に向かい合って話さないとおかしなことになる。
——そうなんですよね。ヴィーガンの人が増えても、それだけで既存の工場畜産のシステムがなくなるわけではないから、常に個人と社会との両方の視点が必要。
栗田 農林水産省と鶏卵業者のアキタフーズの賄賂の問題が、まさにアニマルウェルフェアの規制をめぐる賄賂だからね。賄賂は問題になったけど、賄賂の発端となったアニマルウェルフェアの規制の話については騒がれてなかった気がするんだよね。
栗田 …アニマルライツ派はアニマルウェルフェアをも批判するけれど、でも日本はそんなレベルまでいってないということか。
——そうなんですよ。ヨーロッパだと60年代からアニマルウェルフェア関連の法律が次々できていってるし、東アジアでも法規制ある国が多いんですけど、日本のアニマルフェルフェア状況は鎖国になってて。
その鎖国感というのが、日本の大学ハラスメント対策が遅れてる感じと、似てるような気がしてるんですよね。ぼんやりとした指針やガイドラインは一応あるけど、罰則や実効性を伴ってなくって、結局企業や大学の“努力”に任せられている、とか。消費者運動/学生運動があんまりない、とか。アニマルウェルフェアは科学なので、アニマルウェルフェアを押し進めることがむしろ生産性を高めることもわかっているのに、なぜか日本は既存の飼育方法を続けつづけているという、その不毛な感じとか。
——海外だと、まず消費者による不買運動にはじまり、福祉(ウェルフェア)という土台を築いた上で、それから権利(ライツ)の運動にいく、というステップでわりと順調に進んでいっているのですが、日本はそもそも消費者運動もあまりなく、福祉(ウェルフェア)の土台がほぼ皆無の状態です。なので、まずは最低限のウェルフェアを達成しなきゃいけないのに、最近はヴィーガニズムの是非についての議論が先走って盛んになってしまってる感があって・・・。
栗田 フェミニズムへのネットとかでの当たりのキツさとヴィーガンへの当たりのキツさが結構似てる気がする。ヴィーガンに対しても日本はキツいよね。
——めっちゃキツいです。
栗田 フェミに対して怒る人たちみたいに、急にヴィーガンに怒り出す人たちいるじゃん?
——ヴィーガンというものが存在しているだけでイライラする人たちがいるみたい。誹謗中傷多すぎるから日本語で「ヴィーガン」ってググれないです。
栗田 わたしはヴィーガニズムそのものより、ヴィーガンに対する怒り方にすごいデジャヴ感があって、「あれ、わたしはヴィーガンじゃないが、この怒られ方はすごく見覚えがある」って(笑)。「植物もいのちだけど、野菜は食べていいのかよ?」とか、理解する以前に批判がすぐ出てくる。
——そういう絡み方してくる人いるんですよね。「またそれかよ・・・(脱力)」って(苦笑)。もう十分情報は出てるんだからまず自分で調べてくれ。
↑ ヴィーガンに対するよくある質問&その回答を知りたい方はシェリー・F・コーブ『菜食への疑問に答える13章』井上太一訳(新評論、2017)などを参照のこと
栗田 ヴィーガンへの人々への態度を見た時、わたしはハッと「これはなんか大事な気がする!」って思った。変な気づき方で恐縮だけど、フェミやヴィーガンに怒る人は、自分が今まで得てきたものを奪われると勝手に思うんだよね。性だったり肉だったりいろいろあるんだろうけど。
——わたしもヴィーガンになったときにカミングアウトしたら……
栗田 まずカミングアウトだもんね! ヴィーガンは。
——そう、日本だと勇気がいるんですよ(笑)。で、カミングアウトしたら、何人か友達が去っていって。
栗田 去るんや!
——去りますね。「レナがいるといっしょに飯食べられない」とか言われて。「こいつ変な思想に染まったな」みたいな偏見もあると思うけど、単純に何を食べたらいいのか、どこにいったらいいのかとか、認知が行き渡ってないというのもあると思う。わたしもヴィーガンになった当初、どうしたらいいかわからなかったので、料理教室にいって、マクロビ(=マクロビオティック:玄米菜食)を勉強したんですよ。でもそこが超ネオリベ(=新自由主義)で(笑)。
栗田 もう、どうしたらいいんだろうね?(苦笑)
——そこの先生があるとき雑談で、「日本人は識字率が高くて、ホームレスでも字が読めるはずなのに、それでも働かないのはただの甘えだ」とか言ってて。「…はあ?」って(笑)。
栗田 いろいろ突っ込むところがあるけどどこから突っ込んでいいのかわからない(笑)。それこそ体を壊したりして、働けない事情があるとかわからないのかな。
——でもマクロビアンって、自分たちがマクロビのおかげで健康になってるから、下手すると「みんなこれをやりなよ!」になりがち。幸福つくれちゃうから。
↑ 久司道夫『マクロビオティックが幸福をつくる』(成甲書房、2005年)。良くも悪くもマクロビの思想が学べる一冊。あんまり深入りしたくない人には姉妹編の『マクロビオティックをやさしくはじめる』を。
栗田 そっか。わたしみたいに大豆生活を一ヶ月試したら頭が何故かフォグしてきた、とかは存在しないことになっちゃうのか。健康志向の怖い罠だね。すごく大事なこといってるのに残念な場合があるのもフェミニズムに共通する。
——そう。フードロス問題には関心あるのに、ホームレス問題には関心が薄かったり。
栗田 残念感がすごい(笑)。でもそれは知り合いが言ってたな。これはあくまでヴィーガン等のはなしではないことは前置きして、動物愛護の界隈だと、動物の虐待や差別的な扱いには敏感でも、ホームレス状態の人への差別発言は出てしまう場合もあるとか。もちろん動物愛護をしている方々みんながそうというわけではないですが。
——動物系のボランティアに行くと、ときどき人間に厳しすぎる方がいるなぁ…というのはわたしも実感としてあります…。その気持ちはわからなくはないんだけど…。
栗田 動物を安易に捨てたり、虐待する人を見てきているから、人間に対して厳しい視点になってしまうのかもしれません。生田武志さんの本にはホームレスの人たちが一緒に住んでいる猫たちに出来るだけのお金をかけて、非常に愛情を注いでいる様子が書いてあるのは多くの人に読んでもらえたらと思います。
↑ 生田武志『いのちへの礼儀——国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房、2019年)。日本の動物問題を考える上で特におすすめの一冊。ウーマン・リブやフェミの「個人的なことは政治的である」という主張と同様、「食べることは政治的である」ことを詳細に論じている。
縦と横に糸をつなげるには?——点を線にすることの重要性
栗田 ひとつひとつの問題がバラバラに存在しているのではなく、あらためてこの社会構造が違う形で噴出してきている問題だと今、話をしていて思った。
——やっぱり何でも個人の責任や選択に還元しちゃうから繋がれないのかなー。
栗田 たしかに。フェミニストも「あなた働いてないの?」って、その人が働いているかどうかで切り捨てたりするしね。・・・時代も変わっていって、さらに若い人から見たら至らないところもあるんだろうなー、と思うけど、そこはもう認めるしかないかな。自分の代じゃ「点」を「線」にはつなげられなかったとか。
——そこで繋がるといいですよね。
栗田 そうね。布じゃないけどさ、糸はいっぱいあったほうが強くなる。縦横でさ。たぶんわたしたちは学校教育ひとつとったって、競争や上下関係を身体化されて擦り込まれちゃってるのかな。
——ああ、すごい身体化されてると思う。どうしても周りと比較しちゃったりする。
栗田 我が身を顧みても本当にそう思います。
——今、ハラスメントの運動してて感じるのは、あがる声は増えてるんですけど、一個一個が「点」なんですよね。
栗田 「線」になっていかないのですよね。
——以前、特定の大学でハラスメントの署名運動やっているところと連携とろうともしたんですけど、大学に一応建前として対応されたら、「キャンペーン成功!」とかになって勝手に終わっちゃって。こっちからすると「いやいやいや全然成功してないでしょ」って思うんだけど、根本的な問題解決じゃなくて、自分のキャンペーンだけ成功すりゃいいと思ってるのかなぁ。成功事例として「よくなってます」感出されると、表に見えていない、まだ戦っている人たちの声がますますかき消されていくんですよ。
栗田 その話はきつい。訴訟は和解になった場合、情報を出さないと言ったことを和解条項に入れられたりすると余計繋がれなくなったりもする。もちろん訴訟で和解した人が繋がりたくないわけはないと思うんだけど、そういう構造の問題があるよね。
——だからセクハラ被害者の女性と繋がりたくても、探すことすらできないんですよ。セクハラ被害者の当事者ネットワークとか自助グループとか作りたいな、とずっと思ってはいるんですけどね。でもそれをまとめる労力まで負える自信がないし。
栗田 その人々をまとめる“オーガナイズ(組織化)”という力がいると思うのだけど、わたしも無理というか難しくて…。いわゆる性格がよくて、人の懐に飛び込んでいく力が必要というか…。皮肉なことに、右派の宗教関係者であっても、そういう力を持っている人はいますからね。
——そんな感じしますよね。身近にいたら「いい人」って言われてるんだろうなって。
栗田 人と人をつなぐ作業というのが必要なんだよね。なぜ運動が盛り上がらないかを考えたときに、一つの理由として運動内に差別や暴力があるからそれをなくすためにどうしたらいいか?という問いに行き着くまで、わたしもとても遅くて10年かかりました。あとはここをどうするかなんだけど、鱓(ごまめ)の歯軋りとでもいいたいほど微力ですが、そういう思いを少なくとも消さず、着いた炎をうちわで仰ぐぐらいのことをしたいです。
川口晴美さんがインタビューで言ってたように(第4回インタビュー参照)、「何にもやれてなくてごめん」って言いたくなる気持ちがわかるんですよね。わたしもいろいろやってきたつもりだったけれど、なぜ連帯が難しいかという理由しか分からなかった。
まずそこで立ち止まること——マルチイシューとして捉える
栗田 ヴィーガン叩きにしても、自分が何もやっていないということで焦るから起きるのかな。何かやっている人を目の前にすると、何にも言ってないのに勝手に責められていると思う人はいるよね。
——ああ、そうかもしれないですね。過剰防衛なのかしら。
栗田 わたしも自分がすぐにヴィーガンになるのは難しいな、というのはあると思うよ。でも、あんなにヴィーガンを実践している人にきつくあたる必要がどこにあるかわからないよ。
ヴィーガンの提示する問題が現実に存在しているのならそれをわからない方が怖いじゃん。畜産の話にしても 「動物を殺害するのにあまりに残酷なシステムだ」「そもそもわたしたち人間はそんなに肉を食べる必要があるのか」「牛の出すメタンガスも環境問題に影響がある」「家畜用のコーンばかり植えることの影響」とか問題は多くある。フェミの訴えだって、ヴィーガンの訴えだってなぜ簡単にスルーできるのかがわからない。たぶんそのあたりも、いろんな問題が繋がってる。そういう話は、「そうだよな〜」ってまず立ち止まることが大事じゃん。
——やっぱり、レッテル貼って「〇〇はダメだ」って勝手に結論づけちゃうのはよくないなって……自戒もこめてなんですけど。フェミにもいろんな人いるし、ヴィーガンにもいろんな人いるし、アナキストにも他にもいろんな人いるんだろうし。ダメなところがあるからって、その人たちの主張している問題に対して、何も行動しなくていい理由にはならない。おかしなところはおかしいと指摘しながらも、でもやっぱりそれぞれ理のあるところからは学び続けなきゃいけないなって思う。
栗田 今はシングルイシューという言葉が流行ってるけど、わたしはやはりマルチイシューという視点が大事だと思ってて、さっきの中央集権の問題だと、ジェンダーが抜けたらだめだという話につながるし、いろんなことが繋がってるわけだから。でも全てに人は詳しくなれないからこそ、それぞれのイシューに詳しい人同士で繋がらないと、社会運動はうまくいかないはずだと思う。でも今の社会運動はそういう状況ではないじゃない?
我が事としても、いろんなことに気がつかないのは仕方がないと思うんだけど、何か自分が逆に優位な立場にいたときに、優位じゃない立場の話を聞きうる状況を作っておかないと、ミイラ取りがミイラにじゃないけど、フェミはオヤジ化し、となってしまう。
わたしも至らないことはいっぱいあるんだと思う。人間関係が散り散りになっちゃうとかは、何かができていないというシグナルだと思うんだよね。
それを気づかせてくれるような場所や人間関係が必要なのかな。自分が、一ミリ背筋をただす部分というか、緊張するものが必要だと思う。
交差性についてさらに考察を深める・・・
「性差別やジェンダーと動物に関わる運動、どう繋がってる?」
アニマル・アライアンス・アジアとSamayuが共同主催する Changing the Narrative(ナラティブを変えよう)というプロジェクトのトークイベントに、深沢と栗田さんが登壇しました。