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華道書道茶道、全道是殺人道也 #パルプアドベントカレンダー2021

 老人は会長室から飛び出した。
 和服の裾をはためかせ渾身の力で逃げる。

 片方の雪駄が脱げる。
 振り向けば暗い廊下に白い雪駄、それを拾った者がいる。
 侵入者だ。
 五階、会長室の窓を突き破って入って来た。
 細身の黒いパーカー、フードを深く被り、顔は見えない。

 侵入者は雪駄を掴んで立ち止まる。
 老人の視線を確認してから、顔のあたりまで上げ、前に突き出す。
 ぱきん、と、硬い木で作られたそれがバラバラに割れた。
 親指と人さし指しか使っていなかった。
「き、ひぃ」
 声にならぬ悲鳴とともに駆け出す。


 階段があった。暗い上に老人は膝が悪い。手すりにつかまり息を切らせつつ下りる。
 が。踊り場の先でよろける。
 下の階までの十数段を転げ落ちた。

 足を痛めてうめく老人の先に広がっているのは──テーブルに乗せられた無数の草花だった。

 朱色の小さな常夜灯に照らされて、老人の弟子や門下生たちの作品が皿に活けてある。
 広間の奥の天井近くには「第三十八回 東日本華道コンクール」の看板がある。

 老いた体はテーブルの間を這っていく。
 侵入者はまったく急ぐ様子なく、悠々とその階に降り立った。
 老人は皺だらけの皮膚に脂汗を垂らしながらテーブルをくぐり、他の通路へと隠れ、逃れる。しかしその動きは遅い。

 侵入者は簡単に老人の背中を見つける。
 和服の首周りを汗で濡らしながら老人は生け花とテーブルの森を抜け、とうとう壁際まで到達してしまった。
 隠し扉でもあるかのように白い壁にすがりつき、うなり声と共に立ち上がる。
 そこにゆっくりと、侵入者は近づいてきた。


「な、何だ。何が望みだ」
 老人は口をきいた。
「カネ、カネならある。持ってこさせる」
 侵入者は首を横に振った。
「う、恨みか。山藤組か? 民政党か? 誰に頼まれた?」
 首はまた左右に振られる。
「じゃあ何が望みだ?」
「……華道」
 侵入者は言った。ごく静かな声で。
「華道?」
「あんたの華道が見たい。その真髄」
「さ、作品ならそこらじゅうに」
「枝葉の部分ではなく華道の髄。水、火、木。その技……」
 老人はかぶりを振った。汗が散った。
「なんのことかさっぱりわからん……なぁ頼む。どんなこともする、何でも用意する……」
 真っ暗なフードの奥から、小さなため息が聞こえた。
「──いらん」
 侵入者の声色は冷たく、鋭くなった。
「……なに? 何もいらんのか?」
「いいや」
 侵入者は腕を伸ばした。細く白い手が袖から出ていた。
「道を称しつつ道を極めぬ者──」
 その手が、老人の右腕をつかんだ。
「あんたが、この世にいらん」
「ひ」
 侵入者の指に、慈悲のない力がこもった。




西洋では聖書に代表されるように世界は昼と夜の二項対立によってのみ弁別された。陰陽道は昼と夜の狭間をとらえた。陰陽の先に朝、昼、晩を見た。この三つが即ち三道へと接続されていく。
――篠田伊代介『陰陽道と三道についての私見』



 こん、と庭のししおどしが鳴った。
 この音を津川警部補は、茶室の中で聞いた。

 十二月も下旬に差しかかったある日の昼。都下の屋敷、広い日本庭園の隅に建つ、四畳半の狭い茶室の中である。
 屋敷に来た時の冷たい曇り空からは、今にも雪が落ちてきそうだった。
 ここは中央で釜が静かに沸いているだけで他に火の気はない。寒い。
 津川は正座し、目の前に座している人物に淡々と現場のことを語って聞かせている。
 犯人が侵入した破れた窓、開け放された会長室の扉、廊下の割れた雪駄、展示ホールの絨毯を這った跡、そして。

「会館ビル四階、展示ホールにあったのは死体だけでした。殺されたのは大日本華道連合の代表・相田大助。その死体がまた奇妙でして、」

 そこまで言って津川は思う。
 こんな茶室の中で、このような異常事件の話をしているのもよほど奇妙なことだ、と。

「その、」津川は邪念を追い払った。
「相田氏は、全身の関節が折り曲げられておりました。体の内側の骨が粉々でして。しかし出血はなく、道具を使った形跡もないのです。
 腹を下にして首や手足がこう、それこそ前衛的な生け花のように四方に広がって……。見たこともない形をしておりまして……」
「ああいうモノはありますよ」
 津川の横から第三者の声がした。
「古代南米の一地域には、死体を無理に折り曲げて埋葬するという風習がありました。オブジェのように立てたり寝かせたりして飾るんです。次の世界へ旅立つ魂を祝うんです」
 そうかね、と津川は脇を見る。
 思わず眉をひそめた。
「連れ」である青年が茶室の中で正座せず、あぐらをかいていたためである。
 黒い上着も脱いでいない。その上津川の方に尻を向けて座り、茶色い髪の頭は床の間の方を眺めている。掛け軸と生け花を。
「君ちょっと、不作法じゃないか?」
「ごめんなさい、足が痺れちゃうんで」
「仮にもこういう場でだな……」

「かまいませんで、改まった場ァでもありませんし」
 正面にいる人物はやわらかな京都の訛りで言った。
 猟奇的事件の説明も無礼な青年の態度も意に介さず、きびきびと動き続けていた。茶を点てている。この茶室の、この屋敷の主だ。

 すいません、と謝りつつ視線を戻す。
 目の前の人物の、その動き。
 津川は先ほどから目を見張るばかりであった。

 腕の上下、物品を取り、置く動きの無駄のなさ。それでいて狭苦しさのない、人間的で典雅な幅を感じさせる。
 津川にはこのような芸道はわからない。警察官の職務と空手ばかりが趣味の朴念仁である。それでも眼前の人間の所作の美しさはわかった。

 かき混ぜられた茶が、つ、と差し出される。細くしなやかな手に真っ黒な椀の無骨さが対照的だった。
 津川はその、伸びた手の先にある顔を見た。
 藍色に金の刺繍が走る着物の袖の先、折れそうな首の上に、白い顔が乗っていた。
 色素の薄い顔に、大きな黒目が印象的な──まだ若い女であった。
「どうぞ」
 冷えた茶室に冴えわたるような声音だった。


 津川は考えた。
 隣にいるこのわけのわからない青年は、この女性が一連の事件の犯人だと言っている。
 この華奢な女が男の全身の骨を折り殺した、と。
 そんなことがありえるだろうか?
 華道家の件も全く信じがたい。さらに数日後に起きた、書道家の一件を考え合わせれば二重に信じがたい。
 津川は置かれた茶碗を手に取った。
 手首がちくりと痛んだ。喉の奥からクッ、と思わず声が漏れた。
「どうかされましたん?」
「いえ、大したことはありません。書道家の上野さんの時に、少し」
「あらァ、それはそれは……」
 女はいたわるように頭を小さく下げてそう言った。
 声の中にどこか、面白がっている響きが混じっていることを彼は聞き逃さなかった。


 茶碗を不器用に回す。これらの最低限の作法はさっき、車の中で動画を見て覚えた。スマホで見せてくれたのは脇にいる不作法な青年である。
 一口飲んだ。妙な味がしないかと心配していた。
「向こうさんは毒を盛るなんてしませんよ。盛る理由がない。男三十人と正面からやりあった人間だ。堂々としているはずです」
 隣の青年は言ったものだったが、津川の顔は歪んだ。 生まれてはじめての茶道の茶が、ひどく苦いものだったからだ。
 その苦味に、津川の記憶が呼び起こされる。
 苦い記憶────


 華道家の怪死事件は、師走の日本を大いに賑わせた。
 相田は日本最大の華道組織の長であった。加えてマスコミや政財界にも顔が効き、裏社会との関わりまで噂される古老だった。日本の首魁のひとりである。
 騒ぐ記者や、現場周辺の野次馬にうんざりしきっていた事件発生三日後、課長から呼び出された。
「ある人物の身辺警護を頼みたい」というのが要件であった。何者ですと尋ねると、「書道家だ」との答えだった。
「相田さんほどの権力者じゃないが、日本の書道界のトップだよ」


「上野会長、心当たりがあるんでしょう」
 翌日の昼、洋館の奥の広間で津川は、初老の男に詰め寄っていた。
「心当たりがあるから、警備を頼んできたんでしょうに」
 身辺警護を頼んできた当の人物、日本書道会の上野はソファに座ってこちらを見ようともしない。
 高そうな黒いセーターを着ているが、津川にはそういうものはわからない。六十を越えているらしいが髪は豊かで黒い。眼鏡の奥にある目はごく小さく、狭量な印象を受けた。そしてそれは正しかった。
「いいから君は警備に戻りたまえよ」
 顎をぐい、と上げる。
「特別手当も出してるんだよ。僕は一般市民で、尋問を受ける理由もないし、質問に答える気もない」
「答える気がないってことは、答えをお持ちなんですね」
 津川は突いた。上野は咳払いをした。畳みかける。
「自分の手当が出ているのは税金からで、あなたからじゃない。自分がこの忙しい時期に警護を受けたのはあなたから何か聞き出せると思ったからだ。取引ってわけじゃありませんがね。
 それが何です。民間の警備会社からも何十人も雇って屋敷を囲っておいて、『警察は五人しか寄越さないのか』とは。あんまりひどいじゃあないですか。我々は公僕なんですよ。
 警視庁からの特別警護の五人の中で俺が一番年長です。腕っこきの面々を集めたつもりですが、今から全員で屋敷の外に出てタバコやコーヒーを買いに行くこともできますよ?」
 厚い木のテーブルをごんごん叩くと、上野はわかりやすく慌てた。
「そ、そりゃあ困る。警備は一人でも多くなくっちゃあ」
「それは誰からの警備です。誰の手から守れと言うんです。いや答えは結構だ。相田会長を殺した犯人だ。違いますか」
 聞いた上野は、観念したように大きく息を吸った。
「……そうだ。その通りだ。いや、推測でしかないが……」
「誰なんです、それは」


 上野は無言で立ち、部屋の隅にある大きな机から写真を一枚、出してきた。
「刑事さん、あんたこれをどう思う」


 差し出された写真には、縦長の書が写っていた。
 まず、「読めない」と思った。字の面積より和紙の余白の方が少ないほどに太く、荒々しい文字がとぐろを巻いている。
 だが読めずとも、レンズ越しでも、感じられることがあった。
「こういうのには疎いもんでわかりませんが、迫力……いや何だろう。敵意のようなものを感じます。書画の名作、って雰囲気もないが、素人が書き殴ったにしちゃあ……」
「『力が強すぎる』」
「そうです。そういう感じです」
「今の言葉は、先代──親父の言葉でね」上野はソファに戻る。
「今年の秋の選評会に無名で送られてきたその書の実物を見てそう言った。おそろしい字だ、なんという力だ、と。この書はすぐ焼き捨てられた。鈍感な自分が面白半分に撮影したそれが、この書の存在証明だ」
「お父上が、相田会長の事件でこの書を思い出されたのですか」
「親父は死んだよ。この書を見た三日後に」
 津川は顔を上げた。上野は青い顔をしていた。
「いい齢ではあったが急な死だった。毒気にあてられたのかもな。病室で死ぬ間際に僕に言ったよ。あれを書いた人間に気をつけろ、あれは我々に殺意を抱いている」
「我々、とは」
「書道家。華道家。それに茶道家。日本芸道三道のすべて」
 
 ごう、とその時、屋敷が揺れた。


 そこまで思い出したものの、このやりとりは伏せておきたかった。隣の青年にも写真のくだりは言っていない。容疑者の前で切り札を出すのは、取り調べの終盤になってからだ。


「……身辺警護ということで上野会長のお屋敷まで行きましてね。警官が五人、民間警備が三十人くらいだったか。それがものの五分で壊滅しまして」
「えぇ、新聞で読みましたわ。えらい騒ぎだったそうですなぁ」

 平屋建ての正面、分厚い木の門がまず破壊された。
 火器ではなかった。向かいの家の防犯カメラに映っていた。
 華道家を殺したあの服装の人物が歩いてきて、門の前で立ち止まる。
 その場にいた民間の警備員がふたり、誰何した。
 フードをかぶった人物はごく軽く、両の手でふたりを押した。彼らは棒のようにあっさりと倒れた。
 その両手を今度は、門にとん、と当てる。
 二メートルの高さの木の扉は粉々に散った。
 ロケットランチャーでも使ったような、とは鑑識の男の談である。


 そこからはもはや、侵入者の独擅場だった。
 体格のよい男たちが、手の平や軽く握った拳でいとも簡単に失神、脱力、庭や屋敷内に転がった。顔を覗き込む暇もなかったと全員が言う。侵入者の記憶すらない者すらあった。犯人は手加減したのか、死者は出なかった。
 広間のドアが開け放された時にはもう、そこにいる五人の警官しか残っていなかった。
 署に連絡はしていた。しかしここまでの距離、十五分はかかる。
 五人で十五分、いけるだろうと津川は考えた。

「甘い考えでした」
 飲み干した茶の苦味を回想しつつ津川は語る。
「柔道をやってる若手四人、ほぼ一斉にかかっていきましたが、一斉にやられました」
 侵入者を押さえ込むように四方から飛びかかった若い男たちが、ガラス瓶が砕けるように飛ぶ様子を思い出す。
 腹や胸を「撫でられた」と、彼らは証言した。鈍い痛みと共に吹き飛んで意識を失った、と。

「自分は後方に上野会長を逃がして、構えました。空手をやってまして。しかし相手は速かった。気づいたら腹に一撃です」

 津川は、失神しなかった。
 今まで喰らったどの拳、どの足技よりも重く、凶悪犯から刺された時や撃たれた時よりも痛かった。体の芯から響いた。
 だがかろうじて、耐えた。
「この野郎ッ……」
 腹に触れている敵の腕を、パーカー越しに右手でがっしりと掴んだ。
 厚手の布越し、その腕の細さに津川は驚いた。
 驚いたのは犯人も同様だったらしい。サングラスにマスクで顔はまるで見えない。が、自分の腕を掴んだ津川の太い腕に瞬時、目をやった。「一撃で倒れなかったこと」に、一瞬の動揺があった。
 それはしかし、一瞬でしかなかった。


「反対側の腕で右手首を持たれて、こう……」
 津川は自身の右腕を、茶室の後方に振った。
「紙クズでも捨てるように、壁に向かって放り投げられました」


 三分とは失神していなかったはずだ。
 壁から起きる。ふらりとしたものの受け身は取っていたらしい。右の手首以外に痛みはない。意識ははっきりしていた。
 かすかに焦げた臭いがした。テーブルの上の灰だった。写真が焼失している。犯人の仕業か。ではさっきの上野の言葉は真実だったのか。
 そうだ上野──上野会長は。
 先ほど写真を出してきたあの大きな机、陰に何か黒いものがあった。
「上野さんっ」
 駆け寄って回り込み、抱き起そうとした。
 上野の体を見ただけで、それは無駄であると悟った。

「四角く折り曲げられてましたよ。綺麗な直方体にね」

「前回の華道家と同様だ。関節が綺麗に折られて、外には血も骨も出とらん」
 解剖した老医師の顔は、不条理を受け入れざるを得ないといった形相だった。
「人体が数分でこうなるなんてありえないが、そうなっているものは仕方ない。しかし運ばれてきた時はね、でかい墨かと思ったよ」
「墨?」津川は聞いた。
「ホトケさんは黒髪に黒い服だったろ。上から見るとちょうど固形の墨のような様子で……学校の書道で擦ったろう? あれだよ」


 こん。
 再び軽い竹の音が聞こえた。
「まぁ……おそろしいですなぁ……」
 茶室で正座している女は言った。津川は演技の匂いを嗅いだ。あえて嗅がせているのかもしれなかった。
「こわいわぁ……ご遺体を折り曲げるやなんて……」女はおっとりとそんなことを語る。
「死体を折り曲げること自体は世界中で見られます。『屈葬』というやつですね」
 また横から声がした。
「これは胎児に似せて埋葬することで復活を願っているとも言われます。しかし無理やり直方体に折り畳むというのはちょっと聞かないな、いや数年前に日本のマンガであったな。しかしあれは顔を外にして」
「…………あのぅ、刑事さん」
 女は困惑した顔で、津川に目をやった。
「こちらの方は、どういった方なのか、まだきちんとご紹介されておりませんのやけど……」


 津川も内心、困惑した。
 守っていた人物を殺されるという失態の翌日、警視総監によって引き合わされたものの、この青年についてはほとんど何も聞かされていないのだ。
 茶色いボブカット、社会経験の浅そうな顔立ち、そのへんをうろついている学生にしか見えない。
 ただその茶色い前髪が、目をほとんど隠してしまっているのが奇異に映った。
 総監の指示は一言、「この青年の言うことを聞いてくれ、できるだけ、何でもだ」のみ。
「あ、どうも、よろしくお願いします」と渡された名刺には名前と、連絡先だけだった。肩書も経歴もなかった。


「その、ですね」津川は嘘がつけない男だった。「私もよくわからんのです」
「はぁ……」
「一緒に行動してくれと、それだけで。色々させられましたが……」
 津川の頭にここ数日の忙しさが甦る。
 四畳半の男女ふたりは、困り顔で青年の背中を見た。
 彼はまだ掛け軸と花を見ている。と、ようやく視線に気づいた。
「あ、すいません。そうでしたね。まだ名前しか言ってませんでしたっけ」
 やっとこちらに向き直り、改めてといった動きで正座した。上着の内側から名刺入れを出し、一枚抜く。
「僕、こういう者です」


八神恵護


 津川が渡されたものと同じ名刺だった。
 女は引き寄せて、裏表を返す。
「やがみ、けいごさん? お名前と、ご連絡先しかございませんのやけど……?」
「まぁ何ですかね、その」八神は頭を掻いた。
「こういう事件専門の、アドバイザーみたいなもんです」
「こういう事件、と言いますと……」
「人体が人知を越えた怪力で折り曲げられるとか、そういうのです」
「はぁ、なるほど……さいですか。ではわたくしも改めて、」
 相手は懐に名刺をしまい、姿勢を正した。
「茶道・木村家家元、日本茶道協会の八代目理事長をさせていただいております」
 すう、と空気を切るようなお辞儀だった。
木村輝道きむらてるみと申します」

 津川にはその時、茶室の雰囲気が一気に引き締まったように思えた。


 木村輝美は二十八歳。
 母親の病没をきっかけに三歳のとき、京都の母方の実家に引き取られた。これには茶道家である母方の祖父の強い意向があったとされている。
「小・中学校にはあまり行かなかった。祖父にこってりと茶道を仕込まれた」とは木村輝美本人の発言である。
 その祖父が老衰で逝去、十五歳で東京の父親の元へ。この父親も茶道家であった。木村家先代家元、木村紀明である。
 東京に戻ってすぐ正式な茶の道に入ったが、父親いわく「義父のおかげで、すでに完成されていた」と言う。
 五年後、二十歳の時、紀明の急死に伴い木村家の家元に就く。
 それからの八年で、木村輝美は茶道世界の階段を駆け上がっていく。
 マスコミにも広く顔を出し、芸能界や政財界の各方面にもパイプを作ったという。
「美人だから大御所連中に気に入られている」との悪評もあったが、実力は本物であった。素人も玄人も、彼女の茶道を見ればそれはすぐにわかった。
 華道や書道とも積極的に交流、死んだ両代表とも面識がある。
 今年の夏、日本茶道協会の七代目理事長が辞任を発表、体調不良が理由であったが詳細は不明。
 日本の茶道の頂点とも言うべき協会の理事長の席を、しかし当時の茶道有力者は次々に辞退した。
 転がるように栄光の座は、彼女の手の中に転がりこんできた──

 というのが、津川が八神に渡された紙ペラ一枚の資料の概要である。


 その家元が、頭を上げた。
「それで……華道、書道と狙われて、次がウチやと、そういうご用件でいらっしゃったんです? 犯人がここに現れる、と?」
「いいえ、違います」
 八神はそう言い、懐から本を取り出して畳の上に置いた。
「犯人はここ●●にいます」


 ぴくり、と家元の体が振動した。
 津川は不意に出されたその表紙を見た。


『陰陽道と三道についての私見』篠田伊代介


 古本でカバーはなく、茶色のがさついた表面に金文字でそう記されていた。
本茶道ほんさどう初代にして最後の家元、篠田伊代介──あなたの母方の祖父、育ての親で、最初の師に当たる、お爺様の著書ですね」
「本茶道……」家元は顔を上げた。動揺の色は見て取れなかった。「久しぶりに聞きましたわ、その呼び名……。どこでお求めに?」
「家にあるんです。実家に。こういう本が山のように」
「では事件がきっかけで読んだわけではない、と?」
「そうです。事件を知って、この本のことを思い出したんです」
「お若い方には晦渋な内容やったでしょう」
「論理の飛躍はありましたが、さほどでも。五行を円状ではなく人型に配置する発想には脱帽しました」
「論理の飛躍。どのあたりやろか?」
「これは出版当時の陰陽道の歴史にも関わりますが、お爺様の引用されているものが一部」
「あの、失礼ですが」
 置いてけぼりを食らっていた津川が口を挟んだ。
「その本はつまりどのような内容で、今回の事件とどんな関係が……」
 
 家元と八神は、津川の顔を同時に見た。それから笑った。
「これは失礼しました……刑事さんは読んでおられへんでしょう」
「ごめんなさい。じゃあ簡単に説明します」と八神。「まずこの三道、というのが──」
「華道、書道、茶道でしょう。それはわかります」
「そうですか。じゃあ陰陽道は?」
「この……白黒の、陰陽のマークくらいは知っていますが……」
 津川は手で丸を作る。
「あとは木とか火の要素がどうこう、言う……」
「それでしたら話は早いわ」家元は頷いた。「理屈そのものは簡単なことです」
「篠田伊代介、家元のお爺様ですが、この人は万物の元を陰陽の流転と、木火土金水もっかどこんすいの五つの要素としました。これは陰陽五行説そのままなのですが──ここからが特異なんです。本では文章だけなので図解すると、」
 津川から借りた手帳の白ページを破り、八神はペンを走らせる。


   木
   |
  水・火
 /   \
金     土


 八神は畳に置いた紙の真ん中を、ペンの先で示す。
「この中心にある水と火は、人間であると篠田伊代介は書いています」
 津川の眉に皺が寄った。
「確かに人体の大半は水だが、『火』となると……」
「熱がありますやろ、人の体には」家元が言う。「それが『火』と同等に扱われております。呼吸を整え、体内の水分と熱を操作し、肉体を精緻に動かす。これが基本にして全てや、と」
「幼年期からそのように、お爺様に仕込まれたわけですね」
「────」家元は口を閉ざした。
「さて、本書は陰陽と五行は日本に渡って独自進化し、さらに室町時代に、芸道の形をとって三道に分かれたと提唱します」
 ペンの先がそれぞれの漢字に伸びる。


「水と火である人間が『木』……草花を扱う華道。
『金』を溶かし王に捧げる文を記していた書道。
 そして『土』の焼き物が必要不可欠の、茶道」


 八神はメモを反転させて、家元の膝の前に差し出した。

「篠田伊代介はこの三道を元の通りに直し、ひとつの陰陽道とすれば、頭から爪先まで人体の極限の能力が発揮される、と書いています。いや、それが日本人のあるべき道だと。それをやらんのはけしからん、と。
 道の合一をなした人間こそが日本、アジア、世界を統べる存在になりえる。経済政治も、人種も国境も越え、その人間自体が生きた法となる。さながら天皇──」
「ちょっ、ちょっと待ってくれんか」剣呑な流れに津川は戸惑った。「ちょっと危険な思想なんじゃあないか、これは」
「ああ、そうですわ。新しいものはいっつも、危険物として扱われますなァ」
 家元はゆったりと、とろけるような口ぶりで言った。
「危険なのは貴女もお認めになるんですね、家元」
「危険物として扱われた、と言うてますのや。もちろん社会の側の人らァからしたら、こんな危ないモンはありませんわな」
「このお爺様の本はその、問題にはならなかったのですか?」
 津川は変な汗をかきながら尋ねたが、答えたのは八神の方だった。
「そりゃあ大変なことになりましたよ。現役の茶道家が突飛な理屈をつけた、過度に政治的な文章を発表したんですから。
 彼は協会を除名となり、京都でひとり、門人不在の本茶道を立ち上げました──ついでに言うと、他の方面にもケンカを売ったのもまずかった」
「他の方面?」
 これに答えたのは家元の方であった。
 冬の茶室に、熱のこもった女の声が響いた。


「『この理で言うならば華道書道茶道のみが万物に繋がる通路である。
 その他のどうをひっつけたあまねくどう是即これすなわち三道から派生した傍流、我等の流れの下流も下流、塵芥ちりあくた以下の存在と言える。
 殊に巷に座して声高な空手道、柔道、合気道ほかの武道なるものは是全て三道よりはるか下の餓鬼畜生の類である。
 演武、活殺、喧嘩云々の議論も三道の真髄の前には灰塵と同じ。如何なる武道であっても三道のひとつでも極めた者なれば女子供と問わず、いとも容易く、ただ素手で是をほふる』──」

「ふふ」と、家元は微笑した。「ウチがこの本の中で一番好きな一節ですわ」

 津川は絶句した。

「華道、書道、茶道を除く世のあらゆる○○道には全く価値がない。特に武道など、性別年齢を問わず三道のどれかひとつを極めている者ならば、いとも簡単に殺せる」

 篠田伊代介は、そう書いているのだ。
心技体しんぎたい、と言いますわな。武道では」呆れる津川をよそに、家元は語る。
「けどこれも、元は三道や思いますねん。心を表現する華道、筆運びの技の書道、所作が全てを支配する茶道──
 六歳の時これを言いましたら、お爺様に褒められたことを思い出します。褒めてくれることの少ない方やったから」
「お爺様の思想を、よく受け継いでいらっしゃるようだ」八神が落ち着いた声で言った。
「だから華道と書道のトップを屠って、三道をひとつにまとめようとなさっているんですか、家元」


 こん、と庭のししおどしの音が響いた。
 藍色の着物に身を包んだ女は、細面に笑みを浮かべた。
「さぁ……なんのことやら……」
 八神は正座を崩さない。先ほどのだらけた背中と同一人物とは思えない。
「華道と書道を統べる人物を殺し、たとえば自分の息のかかった者をそこに置く。これにより三道は貴女の手の中だ。あとはゆっくり他の二道を極めていけば、三道の合一はなされます。
 身体のコントロールが重要で、『土』の膂力のある茶道をもってすれば、ボディガードや若い警官を倒すなど造作もない。死者の関節を綺麗に折るなど、いとも簡単に」
「証拠は?」
 家元はぴしゃり、と言ってのけた。
「そないな怪物みたいなことをウチができる、という証拠はありますかいな? 八神さん?」
「ないですね」
「殺人や傷害の証拠は?」
「ありません」
「あはは、そうでっしゃろなァ」家元はさも可笑しそうに口に手を当てて笑う。「おもろいお話でしたけど、証拠もないのに犯罪者扱いされンのはかなわんなァ」
「でも、他の犯罪の証拠ならありますよ」
「…………はい?」家元は小首を傾げた。
「ここからは法律の話なので、津川さんにお願いしましょう」
 八神は正座のまま後ろに引く。
 交代するように津川が前に出た。
「──夏に、茶道協会の理事長が辞任されました。そして何故か理事長への立候補者が他におらず、貴女が就任することとなった。しかしね、家元──」
 畳の上に置いたのは、供述書のコピーだ。
「ヤクザを使って理事長の座を手に入れるのは、いただけません」

 ここ数日かけて津川は、引退した元理事長と茶道家たちを揺さぶった。
「ヤクザに脅されて、引退や不出馬を強いられた」と彼らは言った。
 それに、司法取引に応じた暴力団員の証言もあった。
「春先に女が殴り込んできて、武力で組が乗っ取られた。日本刀どころか銃ですらかなわなかった」と。

「暴対法が改正されて、こういうことにはだいぶ厳しくなりましてね。暴力団の名前をちらつかせて脅迫した場合、関わった人間も処罰の対象になるんですよ。
 たとえ正式の組員や組長でなくても、一定の関係がある──つまり、多少なりとも関わっている、と判断されただけでね」


 家元は、身をかがめてコピーを読んでいた。
 手の平で、顔をこすった。
 洗顔のような仕草だった。
 やがて大きなため息が、彼女の肺の奥から押し出された。

「…………裏の世界から手ェつけようとしたんが間違いやったか。根性がないわ。見掛け倒しの看板倒れや。『極道』なんて、ぬかしよってからに……」
「どうしてこんな脅迫に走ったんです。あなたの実力なら今でなくても会長に」
「お爺様の血ィや。理事会ではっきり言われたんや。篠田伊代介の孫が協会に入れるのは、あんたは別嬪で茶道の看板になるからだ、せいぜい頑張って看板娘してくれ、ってな」
 津川の腹の底にも、ぐっとせりあがる不快感があった。
「しかしだからと言って暴力団を呑み込むなんてのは──」
「何があかんのや」家元の口調は硬い。「華道のジジイなんか、ヤクザと仲良しやったやないか。あれが許されてウチがこうなるのは理屈が合わへん」
「それは──相田氏は──」津川は言葉に詰まる。
「ああわかった。ようやっと、骨の髄からわかったわ。お爺様の恨みつらみが」
 家元は上体を起こして、大きな目で津川を見返した。
「新しくて危険なモンが潰される。その腹立ちが今、ようわかりましたわ」
 刃物のような視線が、津川の心身を射た。


 これ以上の問答は無用と判断し、津川は立ち上がった。
 彼女の気持ちはわかるが、自分は公僕なのだと割り切った。
「家元。ご同行を願えますね」
「いやや。ウチは最後まで抵抗したるで」
「家元。抵抗すると、」八神は座したまま言い添える。「あなたの能力を開陳することになります。ボディガードや警官を倒した、茶道を極めたあの力の」 
さどうをきわめたァ●●●●●●●●●?」
 家元の口がぐにゃぐにゃと蠢いた。すさまじい悪意がこもっていた。
「アンタ、ウチが茶道しか●●、極めてないと思うてんのか?」

 その悪意、敵意に、津川は覚えがあった。 
 上野の屋敷で見た、書の写真──
 はっ、と床の間を見る。
 この文字、この迫力、この「強さ」──
「選評会に書を送りましたね。俺は写真を見ました。この掛け軸の筆致と写真の書の筆致はまるで同じだ」
「あはは、先々代の上野さんには悪いことしましたわァ。刺激が強すぎたんかな?」
「つ、津川さん。なんでそういう大事なことをちゃんと言ってくれないんですか?」八神は座ったまま津川のスーツの袖をひっぱる。「そうなると、困ったなぁ。もしかして家元、こちらの生け花も貴女が?」
「そう。お爺様は茶道だけやなく華道も書道も仕込んでくださいましたんや。どうですか? 相田さんのご遺体に似てますかいな?」
「あー、これはよくないな。これはよくないぞ」八神は袖が取れんばかりに引く。
「津川さん、想定の三倍くらい困ったことになりました。えーと、一旦帰るっていうのはできませんかね?」
「帰るって八神くん、そんな馬鹿なこと」
「それは茶室の外で待ってる、武道の人らァ全員が帰る、言うこと?」


 こん、と庭のししおどしが鳴る。
 津川の頭からは血の気が引いていて、この音がくぐもって聞こえたような気がした。
「どうしてそれがおわかりに」
「殺気がダダ漏れや。十二、三人ってとこやろ? やっぱりお爺様の言うた通りやねェ。三道と比べたら、武道なんかカス以下や」
「家元、手荒なことはしたくありません」
「それはこっちの台詞やで津川さん」家元は音もなく立ち上がった。「全員死ぬで。あんたも、そこの兄ちゃんも」
「津川さんあの、家元も一度、座りませんか」
「八神さん、最後の最後にウチを見誤ったな。今年や。陰で磨いてたモンがようやく実を結んだんや。三道をひとりで背負う力がついたんや。
 せやなかったら、華道も書道も殺さん。ああ、スッとしたで。生きたままあのアホふたりを生け花と墨の形にしたった時は──」
「それは自白と捉えていいんですねッ」
 津川は踏み出して家元の腕を掴んだ。
 着物越しの腕の細さを、手が記憶していた。
「あの時は、ビックリしたで」
 右手首を取られた。
 今度は外せると思った。
 だが、家元の指は、岩のように硬かった。
「今日は、手加減せえへんからな」



 ぐおッと体が持ちあがった。畳が頭の上に来る。
 投げ捨てられた。
 あの時とは比較にならない強さで。

 背中と腰が茶室の壁の一面を完全に破壊したのを感じた。
 寒さ、頭上が白い。 
 雪か。東京に雪が降っている。
 来たときは降ってなかった。いつの間に──
 
 茶室の畳の上、逆さになった八神がいる。
 ────津川さんッ
 口が彼の名前を呼んだ。
 我に返り、地面に激突する直前に体を丸めた。


「津川さん大丈夫ですか!」
 引き起こしたのは後輩の警官だ。空手の胴着を着ている。
 手首が外れている感触がある。右肩も。腰と背中も痛い。いや全身に激痛が走っている。受け身を忘れていたら死んだに違いない。
 これが、三道の力か。
 津川は痛みに歯を食いしばりながら思った。
「すまん。想定よりも強いらしい」歯の隙間からどうにか言う。「無理だったら逃げてもらってもいい。お前と俺以外は民間人だ」


 ちらと目をやった。空は灰色、雪が舞い、庭に積もっている。
 雪上、十二人の男たちが散り散りに、仁王立ちになっていた。


 とんでもなく強い容疑者を捕らえるのに手をお借りしたい。あなたよりも圧倒的に強いかもしれない。ただの人間ではすぐ死んでしまうだろう。あなたのような「武の道」の達人でなければ──
 そんな曖昧な願いにやってきたのが、彼らだった。
 強い相手を求める、酔狂な武道の者たちである。

「刑事さん、立てますか」
 そばにいた袴姿の男が問う。腰に刀を差し、脱力しきっている。
「立てます。戦えます!」
「あなたこそ無理はいけません。どこかに逃げて応援を呼んでください。信じられないことだが──」
 右手の指がひくっ、と動く。「あの女性は強い。一撃ならまだしも、二撃食らったらどんな人間も死にます」
「先輩、行ってください」
「──すいませんッ」
 津川は転がるように庭の隅へと逃げだした。

 家屋の外壁にもたれて歩きながらポケットを探る。スマホは無事だった。電話をかける。肺腑の痛みをこらえて応援を呼んだ。
 八神は無事だろうか? 受け身を取る間際に影が走り去ったように見えたが。
 応援部隊がここにつくまで何分だ? こちらには武道の達人が十二人──
 彼は勘定するのをやめた。
 甘い考えは捨てなければならなかった。
 


「ネズミが二匹逃げた思うたら、今度は十何匹も出てきよったかッ」
 藍色の着物に身を包んだ女の、落雷のような大声が庭に響いた。
「聞け雑兵ども! 塵芥の餓鬼畜生ども! 
 木火土金水、三道を極めた人間がここにおるぞ!
『三道合一を成した者はもはや技も要らず、体ひとつの力で如何なる物も壊す』!
 私が本茶道流、陰陽三道初代家元──木村輝美や!」

 ざッ。
 男たちは臨戦態勢を取った。
 女は足袋のまま茶室から降り、白くなった地面に立つ。
 腕は下げられているが体からは少し離れている。平手は正面、迎え撃つ構えである。
 広い庭園は一面に雪を被っていた。やわらかな雪が木、岩、地面、立ち並ぶ武道者たちの肩を覆っている。
 女の肩や頭の上にも雪は舞い降りる。しかし身体から発される異常高熱で即座に白く蒸発する。水蒸気が女の背から立ち上る。白い邪気が漂っているかの如く。
「来たンはこれだけか? 求めに応じて来た武道家は?」
 木村家元は叫んだ。
「こんな人数で私を倒せる思うとるんかッ、『道』の木っ端の分際でッ!」
「だりゃあッッ!」
 そばにいた空手着の警官が踏み出し正拳を突き出した。
 拳は家元の心臓まっすぐに刺さった。
 壊れたのは拳。骨が折れている。血が飛ぶ。
 書道は金。即ち金剛の肉体。
「なんやぁッその空手はぁッ」
 家元が右手で突く。警官は吹き飛び庭石に激突した。
 おらあッ、と掴みかかった者がある、巨漢、柔道着、女の着物の胸元を掴んで反転し、確かに持ち上げようとした。
 男は膝からカクン、と落ちた。
 手首の骨が外れている。
「あ……?」
「『木』ィは重いやろ」家元はあざける。「三下なら体の方が負ける」
 足袋が柔道着の腹を蹴る。分厚い肉体が庭を転がり吐血した。
 巨大な肉塊が迫った! 正面から帯をがっぷり四つ、裸にまわし姿の力士が細身を捉えていた。
「あら横綱、お久しぶりですなァ」家元は組まれたまま鷹揚に言った。両手は下がったままだ。
「……すんません木村さん、あんたを止めに来ました」
 横綱の上半身から水蒸気、指に力。
 女の体が持ち……上がらない!
「…………!」
「そういうことや。相撲道ごときでは太刀打ちでけへん」
「俺は……俺は前からあんたのことが」
「このボケがぁッ!」
 家元は左手だけでまわしをひっつかみ、頭の上まで軽々と力士を持ち上げる!
「道に生きれんモンはこの世にいらんッ!」
 丸い体が投擲され横綱は池に落下した!
 激しい水音と同時に左右脇から突き出されたものが二本、杖と薙刀の長物が交差する! だが家元はいとも簡単に急襲をかわした。
杖道じょうどう薙刀道なぎなたどうが手ェ組んだんかい」
「だぁッ!」
「しゃァっ!」
 激しく動く長物をしかし、家元は軽く身を引くだけで避け続ける。水が流れるように。
 不可視の速度にあった杖の先と刃が一瞬の後に、女の両手に握られていた。
「道具は、ただの道具や」
 そう言うと杖は炭になり、薙刀は溶けた。
 絶句する武道家ふたりの顔面に、小さな両の裏拳がめり込む。
「道に立つのは己の身ぃひとつ。もちろんあんたも──」
 ちぇェイッツ、と叫んで上段から日本刀! 女の体は風になびく炎の如く柔らかに揺らいだ。
「ご同様」
 着物姿が消えた。剣道者は「えっ」と呟く。その首筋に手刀が叩き込まれた。


 風が吹いた。
 雪が舞う。
 つまらなそうな表情で振り返った木村家元の五歩ほど後ろ、刀を鞘に収めたままの男が立っていた。
「居合道、草壁と申します」
「はァ、さようですか。こらまぁご丁寧に」
 家元は丁寧に挨拶を返し、頭を下げた。馬鹿にした態度と行動であった。
 だが草壁は動じなかった。
「貴女のような強者を待っておりました」
「…………」
「他の方々、手出し無用です」
「……まぁえぇわ、付きおうたる」


 しん、と庭園が静まり返った。
 音もなく落ちてくる雪が降り積もっていく。
 まだ挑んでいない男たち、敗北して地に伏している男たち、全員が息を詰めた。
 草壁の手は柄にかかっている。
 家元の両手は、腹の前あたりで重ねられている。
 ひとつまみの雪が、彼女の肩に乗った。
 ゆっくりと溶けて、藍色の着物の肩にしみ込んだ。

 ひときわ大きな綿雪が、ふたりのちょうど真ん中に、ふわりと、

「シッ」 

 草壁の指が、かすかに動き──

 刀の柄はすでに、押さえられていた。
 透き通るような白い手。


「……修行し直してまいります」
 草壁は眼前の女に言った。


「無駄やと思うで」
 家元の貫手が、草壁の鳩尾に入った。


「チェエイッ!」
 間髪なく丸坊主に黒い上着の胴着! 少林寺が飛ぶ!
 黒い靴は木村の顔面を捉えることなく叩き落とされ、脇腹に足袋の足刀が入った!
 脇から拳が頬に、かと思いきや体ごと横へ流れ女の正面へ! 高速のフェイント!
「躰道ごときがァッ!」
 刹那家元は袖を掴む、引き寄せると同時に頭突きが男の顔面を潰した!
 すぐ後ろに袴の男が歩み寄る! 「けっ!」反射的に振られた家元の裏拳を受け止め、体は円を描く。そのまま相手を押さえつけるが合気道の常道、しかし、
「ウチを転がしたかったら」
 相手の腕を持つ、合気の達人の腕の方がきしんだ。
「おたくの創設者くらい呼んでもらわんと」
 女が一息吸ったそのあと、合気道の男は地面に後頭部を叩きつけられていた。
「ダァッ」 
 わずかにかがんだ木村の後頭部を素足の踵が狙った! 
「その道着…………跆拳道テコンドーまで呼ばわったンかいな」
 足は、片手で防がれていた。
 そのまま持ち上げると、相手は人形のように雪の上に転がった。
「こうして……」
 藍色の裾の中の脚が真上に上がる。
 足は稲妻のように振り降ろされ、踵が胴着の胸部を砕いた。
「……こう。はン、面白い小技──」
 言い終わる前に壮年の柔道着の男の太い腕が細く長い首を締め上げた! 家元は前屈みになった。周囲の負傷者たちは落ちた、と思った。しかし男の側が驚愕の表情を浮かべている。
「ひょっ」
 声と共に女の体は跳ねて、背後の男もろとも倒れた。
 壮年の男の顔面は後頭部に潰され、鼻が内側に食い込んだ。



「ふぅ…………」
 面倒そうに起き上がった木村家元は、歩きながら庭園のそこかしこを見下ろした。
 武道に生きる男たち、女ひとりを捕らえるために呼ばれたその道の者たちが全員、敗残していた。
 失神している者、うめいている者、荒い呼吸と共に虚空を見つめる者──。それぞれの敗北が雪に覆われていく。
「わかったやろ。華道書道茶道の三道こそがホンモノで、あんたらはその残りカスや。でも、よう挑んできたわ。偉いもんや。まだ生きてるモンには今から痛くないよう、とどめを──」

「そういうわけにはいかないんですよ、家元」
 木の陰から、津川が現れた。
「あんたは犯罪者ですからね。暴対法と──」
 腕を広げて示した。
「傷害、公務執行妨害の現行犯で、逮捕します」

 家元ははじめて、気の抜けた表情を見せた。呆れ返っているようだった。
「あんた、ウチを現行犯逮捕したくて、こないな噛ませ犬どもを用意したんか?」
「いえ。彼らを呼ぶよう頼んだのは八神くんです。『道には道を』ってね。現行犯ってのは俺のアイデアです。間違いなく有罪ですからね」
「ウチを逮捕でけんかったらなんの意味もないですよ、津川さん」
「逮捕しますよ。しますとも。それが俺の正道せいどうなんでね」

 津川は片足をすう、と引いた。両の手を握り、右を脇の下まで引く。
 少し休んだから戦える、と言い聞かせて、手首と肩の骨を入れて、戻って来たのだった。
 肺腑が痛む。痛くない、と体の声を心でねじ伏せた。
「最初にぶっ倒されたそこのバカですが、俺の後輩でね」
「空手」
「そう。警視庁では俺の次に強い」
「……ははん。あはははは」
 家元は笑った。
「津川さん、あんたウチに勝てると思ってますのん?」
「思っているから、こうして出てきました」
「あはは、アホやなぁ。後輩さん並みにアホや」
「そうかもしれませんが、あなたも大概アホのようだ」
「なに?」
「だいぶご無理をされているのを、お気づきでない」
「え」

 ぽた。
 足袋のそばに落ちるものがあった。
 血だった。
  

 彼女が手の甲で鼻をぬぐうと、親指の下あたりが真っ赤に濡れた。 
 

「八神くんが、ここに来る前に言ったんですよ。『道の技を防ぎかわすのだから、体に相当な負荷がかかる。家元はそう長くは戦えない』と」
 相手は鼻をすする。
「お分かりになってないようだが、目も充血して、顔色もよくないですよ、家元」
「──────」
「陰陽だの三道だのの理屈はわからんが、今なら俺でも勝てるかもしれない。それが無理なら、相討ちくらいには」
「…………くふ、ふふふふふ、ふふ」

 女は笑った。
 目は笑っていなかった。
 炯々と光る、猛禽類の目になっていた。

「ふふ、あかんなぁ。ウチも修行が足らんかったんかなぁ……あはは、ウチ、お爺様にまた叩かれてまうわ……」
 ぎらぎら光る瞳が宙をさまよう。いつの間にか彼女の肩にも髪にも、雪が乗っている。溶けない。藍色の織りが白く濁ってゆく。
「津川さん、しばらく姿ァ見んかったんは、応援呼んで来はったからやろ?」
「…………ええ、そうです」
 津川は構えたまま頷いた。
「ごっつい警察の人やたら、機動隊やたら、ぎょうさん来はるんやろなァ」
「えぇ。ですから家元、おとなしく──」
「死ぬまでに、そん人らどんくらい殺せるやろか」

 津川の全身がぶわッと粟立った。
 落ち着かない子供のように女は細い体を揺らす。表情は少女のようになっている。目だけが、溢れるほどの殺気をはらんでいる。
「曲げて折って……、固めて砕いて……どんだけ殺せるやろか?」

 この女は、本当に殺る。
 自分が死ぬまで、向かってきた相手を殺し続ける。
 津川の本能が教えていた。


「銃なんてダメですよ津川さん。組員の証言があったでしょう。茶道の達人にそんなもんじゃ太刀打ちできません。ぶつけるのは武道──それも『道』の一流の人でないと」
「どうして? ただの空手家や柔道家では駄目か?」
「本気を出した向こうの『道』の強さに、命を奪られる可能性があります」 
 八神とのやりとりが頭をよぎる。
 津川は先ほどの増援指示を後悔していた。想定の三倍は強いという。一道ではなく三道──簡単な計算だ。
 身内が、警察官が死ぬかもしれない。華道家や書道家のように。

「なんやァ、あんたに言われたら妙に気持ちが落ち込んできたなァ……」
 家元はゆったりと、庭を見回した。
「景気づけにここでへたばってる人らァ全員、殺ってまおうかな」

 津川の背中に汗が流れた。
「家元、無茶な真似はやめてください」
 言葉が届いているのかいないのか。家元は滑るように庭石の方へと歩いていく。そこには津川の後輩がいる。石に背を預けて座り、どうにか意識を保っている。だが動けないようだ。
「あんたが、後輩さん?」
 家元は聞いた。後輩は悔しそうな視線を投げるだけだった。
 津川の方を、家元は振り返った。
 その顔は白く、ほとんど透明だった。
 この世の人間ではないと津川は感じた。
 
 藍色の着物の膝が緩慢に上がる。
 足の裏で、首を狙っているのがわかった。

「やめろッ」と叫んで飛び出そうとしたその瞬間に、 


「家元。僕と勝負しませんか?」


 背後で声がした。 
 八神だった。

「……しょうぶ?」
 首を踏み折ろうとしていた足が下ろされる。
「なんの勝負や。お兄ちゃん」

「僕との一対一、タイマンってやつです。さっきは逃げましたが僕も、あなたに勝てる自信があります」
 はーぁ、と、家元の口から白い呼気が上がった。大半が呆れだったが、怒気も含んでいた。
「逃げネズミな上に、ほそっこい体のアンタが、ウチに勝てる?」
「勝てますよ。これで」
 八神は背中に隠していたものを出す。
 やんわりと曲がった木の棒に、太い糸が一本。
 弓、弓道か。津川は思う。
「弓……それでウチと戦う、言うんか」
「はい」
「勝てるて、なんパーセントや?」
「100%」
「舐めンなこのガキがァッ!」
 死に近づいていた彼女の顔に血の気が戻る。

「舐めやがってッ……ウチを誰や思うとる」
「死にかけている人、ですかね」
「こっ…………!」
 家元の鼻から血がまた吹き出る。目の縁に血涙が浮かぶ。白かった足元が鼻血で赤に染まる。
「このガキッ……!」
「篠田伊代介の考え方は革新的でした」怒りに震える家元に構わず八神は続ける。
「あるいは、あれが正解なのかもしれません。火と水としての人間を中心に据える。原初の陰陽道はそうだったのかもしれません。でも、もうお分かりでしょう」
 首を揺らす。前髪にかかった雪を払ったようでもあった。悲しげな素振りにも見えた。
「人間の体は、その力に耐えられないんですよ。家元」
「耐えてる……ウチは耐えてるわ……!」
「長年の修行と忍耐がかろうじて支えているだけです。あなたは本当にすごい人だ。でもあなたもお爺様も間違っている。道は危険だから五つや三つに分かれたのです。誰の心身も、ひとまとめの『道』は背負えないとわかったから──」
「違うッ。ウチはずっと一人でこの道を歩いてきたんやッ」
「では何故、お爺様はご自身で『三道の合一』をしなかったのでしょう?」
「────それは」
「お爺様は理論家でいらした。しかし実践はせず、いち茶道家として生涯を終えた。結果がわかっていたからです。だから先の本も後半は罵倒に費やされている。『さぁやれ』『お前がやれ』と、読者を扇動するように。
 彼は理論という爆弾を作ったものの、使う勇気がなかった。使用者もろとも滅びてしまう爆弾です。だからそれを紙に封じ込めて時を待った。この理論を背負う人物の出現を。そこに知らせが届いた。娘の死、そして、孫の貴女の存在──」

 家元の口から、血の粒が混じった薄紅色の吐息が大きく吐き出された。
 冬の風に巻かれて薄紅色は、すぐに消え去った。
 雪は止んでいた。
 雲の切れ間からかすかに、夕刻の陽光が差し込んだ。 



「……なんやウチ、あやつり人形みたいやんか」
 木村家元は小さく呟いた。
 大きな目から、血涙が落ちた。
「お爺様の……篠田伊代介の理論の……」


「そんな切ないことは言わんでください」
 黙して聞いていた津川が口を開いた。
「俺は空手馬鹿ですが、さっきのお点前を見て本当に、心の底から感服しました。美しい動きでした」
 津川は一拍、呼吸を入れた。そして言った。
「あなたの茶道は本物です。人形などではありません」


 女の瞳に、あたたかい心の光が走った。
 だが大きな黒目はまた闇に沈み、虚空を見つめた。

「でももう、後戻りはでけへんわ」
「家元」
「褒められてホンマ嬉しいけどな。あんた言うたやろ。暴対法に傷害に公務執行妨害──。もう手遅れなんや。ヤクザの組長を殺した時、いやお爺様に引き取られてしもうた時から、この道は半ば決まってたんや」
「それは違います。人はやり直せます」
「ウチは、人形や」
 垂れていた腕を、力なく上げる。
「物心ついた時からお爺様に操られて、今さっきその糸が切れてしもうたあやつり人形や。でも、お二方、気にならへんか?」

 つ、と足袋が、雪の上を滑って前進した。

「糸の切れた人形が、まだどれだけ動けるんか」

「やめましょう家元」津川は構えを解かなかったが、気圧されて少し下がった。「これ以上の殺生は無用です」
 左、右、左、足袋がこちらへと向かってくる。
「糸の切れた無用の傀儡が、どれだけ人の世に害をなせるか……」
 結った黒髪が一筋落ちて、純白と深紅が乱れる顔にかかった。
「お願いです。もう戦うのは」
「ずぅっと戦ってきたンを、今さら終わりにはでけへん」
「じゃあ、僕が相手になります」

 下がった津川の体をさえぎるように、八神が立ちはだかった。
 弓を引いている──が、その中に矢はない

「……アンタ、矢ァは?」
 家元が血まみれの首をかしげた。
「そうだ八神くん、矢は……」
「おふたりともご心配なく。これでいいんです。これで勝てます」
「そう、絶対勝てる言うてたなぁ、アンタ」家元が指をさす。「それで仕留められんかったら、あんたのこと生きたままグチャグチャにしたるけど、ええの?」
「いいですよ。貴女には無理ですけど」
「舐められてるなァ、腹が立つわァ……」
「八神くん君は一般人だ。応援が来るまで無茶なことは」
「下がって!」
 冬の空気を切り裂く鋭い口調だった。津川は心臓を射抜かれた思いがした。
「津川さん、下がってください。後ろの木に背を預けて。動かないでください。絶対に。いま倒れている皆さんもそうです。絶対に、そのまま横になっていてください」
「ははっ」藍色の着物の鬼女は口を開けた。その拍子に血がだらり、と顎まで伝った。「爆発でもするんかいな……? これはおもろそうやわ……血ィが騒ぐ……」


 家元は音を立てて冷気を吸い込んだ。
 目が大きく開き、赤い涙がどろどろと出る。鼻と口からも血がこぼれた。

「おもろそうや……生きた若い男をなぶり殺しにすんのは……」

 寒風がにわかに激しくなり、家元の体を包むように吹いていく。周囲の自然すらも巻き込んでいるかのようだ。
 言われたとおりに木まで後退し背を預ける。空手の構えはそのままだ。
 青年の背中を見た。津川は驚いた。
 弓を引いている腕が、小刻みに動いている。
 明らかに弓を引きなれていない。
 八神は、弓道などやったことがない。


 よせ、と叫ぶ間際だった。
 家元が十数歩の距離から、八神に向かって飛んだ。
 獲物を狩る鳥を思わせる叫びと共に。
 八神の手が離れた。 
 弦が跳ね返った。
 家元は止まらなかった。
 彼女の手刀は、八神の握っていた弓を真っ二つに斬っていた。
 切り口に火が爆ぜる。煙が散る。
 女の指先に火がついていた。
 これが、「火」の極致──
 三道を極めた者は、火まで出せるのか。


 初太刀を、八神はかろうじてかわしていた。
 だがすぐ第二の刃が迫る。
 津川が青年の死を確信した瞬間だった。
 冬の空気の中に、温かくわずかに甘い温風が渡ってきた。
 この香り──


 家元が膝をついて八神の前に倒れるのを、津川は見た。
 ──何? 
 同時に、自分の膝も地面についていた。
 ──何、が……?
 おそろしいほどに心地よい眠気に抱きつかれ、津川は意識を失った。



 八神の握っている、弓だったもの。
 家元が斬ったその切り口が、赤く燃え続けている。
 八神は庭に倒れている男たちを見やった。さっきまで痛みと屈辱で歪んでいた顔には安らぎがあった。
 目を閉じ、眠っているのだ。

 彼はそれから、地に倒れ伏した家元の前に正座した。
 彼女はまだ眠っていなかった。陰陽三道を極めたがゆえか。しかし、体は動かないようだった。
 充血した目でどうにか、青年の方を見やる。
「なんや…………これは?」地面の雪を散らしながら唇が開く。「アンタ、何をしたんや……」
 八神は家元の前に斬られた弓を置いた。一方を下に、もう一方を上に。燃えくすぶり、大量の煙を立てている。
「この木はコミンボクと言います。虎も眠る木、虎眠木です」
「こ……」
 家元はかすれる声で言った。
香道こうどう……………」
「そうです。お爺様の著書でも取って足らぬと無視され、だからあなたも存在を忘れていた、香道です」


 香道とは、日本の芸道のひとつである。
 木を薄く切り熱し、その香りを楽しむ。華道、書道、茶道と共に、室町時代以前から伝わっている由緒ある「道」である。


「さ……三道にも入らんかったはぐれ者が……なんで、こんな……」
「思うに、わざと外されている、あるいは外れているのだと思います。つまり貴女のような人が出た時の、抑止力のために」
「……はは、確かにな……」家元は微笑した。「要の呼吸にこんなモンぶつけられたら、こらかなわんわ……。三道も武道も、勝たれへんな……」
 血涙と鼻血が流れ、雪ににじんでいく。
「八神さんアンタ、香道のひと……?」
「とんでもない。これは香道の大御所から急遽もらってきたモノです。これだけじゃごまかせないので弓にでっちあげて、疲労困憊のあなたを挑発しました。そうすれば、怒って弓を燃やしてくると思いまして」
「香道のひとや、ないとすると……」家元の瞼が重くなる。「あんた……なにもの……?」
「ご挨拶の通りです。僕は単なるアドバイザーですよ。こういう事件の」
「……まぁ……くやしいわァ……ホンマ……に……」

 女の瞼が閉じ、静かに寝息を立てはじめた。
 虎眠香には鎮痛・鎮静の効果もある。

「はぁ」八神は立って、膝の雪を払った。「死ぬかと思った」
 服の前がざっくりと切れている。風が隙間に入ると臍のあたりがちらちらと見える。家元の一閃は、まさに紙一重だったのだ。
「応援の人たちまだ来ないかなぁ。これじゃあ寒くて」
「八神さんッ!」
「わッびっくりした!」
 八神が飛びあがって振り向くと、酸素ボンベを背負った男が立っていた。
「無事ですかッ!?」
 男は潜水服のようなヘルメットをかぶっているので、大声になる。万が一全員が眠ってしまった際の連絡要員になるための装備だが、第一義の目的はそれではない。
 首から下は冬らしい厚着、手には巨大なうちわを持っていた。
「無事です。ありがとうございました。あなたのうちわの熱風が煙をうまく集合させて、彼女の顔の方に流してくれましたよ」
 庭の隅、草の陰に簡易型のストーブとサウナ石が隠されている。メットの男は「弓」が燃えた前後に、ここの熱気を寒風に乗せ、決戦のど真ん中に送り込んだのであった。
「サウナ道の団扇捌きアウフグース、お見事でした」
「いやぁそんな! まだ若輩者です! ところでその木の香り、吸うとどれくらい眠るもんなんですか……!?」
 男は不安げに足元の女傑を見やる。遠まきに彼女の暴れぶりを見ていたのだろう。
「がっちり吸えば二週間、軽く嗅いだだけでも三日は眠る──と香道の方がおっしゃってました。だからこの周辺の住民は皆さん、数日は眠っちゃうんじゃないですか。うちわでかなり押し飛ばしましたし」
「えっ」男はヘルメットの中で顔を曇らせる。「そんなヤバいモンなんですか」
「ヤバいので、最後の最後まで使いたくなかったんです」
「……それを吸って平気な八神さんって……」
「あー、それはまぁ、体質ってことにしといてください。でもちょっと眠いんですよね……あっほら、また雪!」
 八神は話をそらすように上空を見上げる。
 夕日を透かして明るい灰色をした雲からまた、雪が降りてきた。
「八神さんあの、俺、警察に事情とか聞かれますかね!?」
 メットの前面に落ちる雪をぬぐいながら、男は言う。
「なんせこの負傷者だらけの状態で、近隣の人も寝かせちゃったわけで……」
「さぁー、僕は雇われの身なので……なんとも……」
「明後日ってクリスマスイブじゃないですか! 俺、彼女とサウナデートなんですよ。それまでには帰れますよね!?」
「さぁー、僕とあなた以外の当事者は、揺すってもつねっても起きずに二週間は寝ちゃうわけですし。かなり長く聞かれるかも……」
「そんなぁ」

 
 男ふたりの声が、みんな眠って静まりかえった高級住宅地、師走の二十二日の夕方の空に響いた。
 雪は等しく、誰も彼も分け隔てなく、東京の街を白く染め上げていく。





【完】



この物語はフィクションです。
茶道、華道、書道、香道ほか、
いかなる芸道、武道の団体とも
一切の関係はありません


🍵本作はnoteの創作集団による年に一度のお祭りイベント、「 #パルプアドベントカレンダー2021  」参加作品です。何故か2本上げているので、もう一方のトナカイが狂う掌編もぜひお読みください。

♾️なんか八神って奴が出てきたけど、誰? → こいつです。私にもまだよくわかっていませんが……



🦁明日23日は、浮世の涙を汗とし流し、ととのえ続けて幾星霜、男の道をサウナに賭けるこの方、ライオンマスクさん『令和サウナエルフものがたり』、はりきってどうぞ!(※上の拙作にサウナ道が出てきたのはマジで偶然です)



 

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