COVID19が齎す"政治性忌避の「アーティスト−ファン」共同体"の衰退…アフターコロナのアーティスト像と"希望"に向けた闘い
❏現在、アーティストが政治発言を忌避する理由。まずは単純に勉強するコストと発言後のやりとりの労力の大きさにある。
そのコスト・労力の割合が大きくなると…単純に"練習時間"、"創作時間"が削られるし、エネルギーも取られる。これは、世間の他の仕事の方々も同じと思う。
❏逆に、ファンがアーティストの政治発言を忌避する理由。これは柳田國男民俗学のハレ、ケ、ガレのフレームワークで読み解ける。
日常の疲れ(汚れ、気枯れ)を祭り(ハレ)でふっ飛ばしたい…てのが根底にあって、祝祭であるライブは日常の鬱陶しいものが排除された空間でなければならない…との志向性。
❏その祝祭空間(ライブ)で政治の話をされると…日常のなんやかんや、無力感、そうした"現実"に引き戻される。日常の無力感が濃い=自分の現状を政治がなんともしてくれない、そんな社会ほど、祝祭空間の「幻想度」「現実乖離度」を求めがち。即ち日本がそれだ。
❏海外でもアーティストが政治発言をすると嫌われる、という文化はあるのだが、海外アーティストは日本のアーティストに比べ、より「現実格闘度」が高い。特にU2やBon JoviといったロックバンドやMetallicaなどのメタルバンドだ。
❏彼らはCOVID-19発生以降、有事下になっても平時下で積み重ねてきた"持ち歌"を歌う。普段から”闘う人のため”の曲を作って歌っているので、そこにギャップはない。
一方、日本のアーティストは、平時のノリでフワッとした曲を出す。支持する人も多いが、鼻白む思いで見ている人も多い。
❏特に、星野源の"お家で踊ろう"は平時の頃からの「政治性忌避」の姿勢が透徹されたまま作られた曲で、安倍政権にその"ヤワさ"を見抜かれ、「どうせ文句を言ってこないだろう」とタカを括られて舐められ、まんまと"政治利用"されてしまった。
星野源は、そのことについて、どうにか不快感の表明と取れなくもない、なんとも言えない、こねくり回したような形の妙ちくりんなコメントをした。
本来、自分の魂を削って作った(?)大切な作品を意図しない形で勝手に政治利用されたのだから、激怒して怒りをストレートに表明しても良かったはずだ。
普段から政治忌避をしているのだから、政治利用されたことに対する怒りはあったはずだが、わけのわからない回りくどい言い方しかしなかった。ファンとシンパは「大人だ」と評価したかも知れないが、もともと鼻白む思いで見ていた人は、失笑するのみだったろう。(ぼくもそのひとりである。)
24時間で消えてしまうinstagramストーリーに投稿した、というやり方も含め、ため息が出るくらい”ヤワ”な発信だった…。
(同時に、怒りを示さなかったことから、星野源が曲を作る時に、たいして魂を削っていないのだろう、という逆説も成り立つ。彼の曲を聞く限り、そもそも"怒り"の感情が薄い人なのかな、という気もするが、本稿とはあまり関係がないので、詳細は別の機会にしよう。)
ひとつだけ。
安倍晋三さんが上げられた“うちで踊ろう”の動画ですが、
これまで様々な動画をアップしてくださっている
沢山の皆さんと同じ様に、
僕自身にも所属事務所にも
事前連絡や確認は、事後も含めて
一切ありません。
出典:星野源さんInstagramのストーリー
❏その後もきゃりーぱみゅぱみゅが #検察庁法改正案に反対します のハッシュタグをつけてツイートした後、「ファンの争いを見るのが辛い」ことを理由に、そのツイートを「勉強不足だった」として削除したり…
芸能人、アーティストと政治性をめぐる騒動の話題は断続的に、しかし頻度を増しながら続いている。
❏現在、人気を集めている日本の芸能人・アーティストの殆どは、政治性を忌避し、"現実"をうまく回避しながら、幻想の中で陶酔したいファンを拡大してきた人々である。
彼らは、市場のニーズを敏感に読み取ってフワフワした表現を行い、フワフワしたいファンによって支えられ、生かされてきた。
❏今さら、自分たちの創作空間でフワフワしながらお金を落としてくれるファンに「政治という"現実"」なる冷や水をぶっかけて「我に返らせる」わけにはいかない、ということだろう。
それは、自分が冷や飯を食らうようになる、という結果に帰結する。
❏「冷や水を浴びせて冷や飯を食う」のはバカだ。…そう考えるのは自然なことである。
そもそも、そのような"幻想を剥ぎ取った現実と格闘する姿勢"を持ち合わせていない人たちが、成功して今の高い地位を持っているのだ。
❏COVID−19によって、多くの日本人が忌避していた"政治を含む現実"に向き合わざるをえなくなった。
その結果、現実から乖離した「フワフワした"アーティスト-ファン"共同体」による幻想空間:現実逃避空間が、存続の危機にさらされているように見える。
❏アフターコロナにおいて、ある程度の安定した日常生活が戻ってきたとしても、一度収縮した「フワフワした"アーティスト−ファン”共同体」はかつてのような勢いで膨らまないだろう。
COVID-19によって、シビアな現実に直面して目の覚めた多くの人々を避けるように、彼らは、より強めに「フワフワすること」を志向せざるをえず、以前にもまして、現実から乖離していく。
❏高く浮遊するためには、質量が小さくなくてはならない。あるいは質量が小さくなった結果、高く浮遊する、といった因果関係かもしれない。
いずれにせよ、アフターコロナでは、そのようなプロセスで小さくなった「フワフワした"アーティスト−ファン”共同体」が多数できるかもしれない。しかし、それらを集めたとしても、全体から見ると多数派には至らないのではないか。
❏一方で、はじめから政治的姿勢を明確にし、現実と格闘しながら強い作品を残していく「地に足のついたアーティスト」が地道にファン層を拡大していくと思われる。
同時に、コロナ以前に日常の無力感、政治に対する無力感…といった種々の無力感に苛まされていた人々は、徐々に現実と格闘する力を自体内に育てて、「病」から"快復"していくに違いない。
❏その"快復"の寄す処として、"現実格闘度"の高い、強いアーティストを求めると思われる。
そのような形で、コロナ以前よりはるかに健全な「アーティストーファン」共同体が多数できるのではないか。そのことを期待せずにはいられない。
❏COVID-19の病みを”治癒”したとき、今まで日本社会が抱えてきた"病み”も、治癒されていく…。
多くの犠牲と困難の果てに、そんなひとすじの希望の光を手繰り寄せながら、明るい未来を作っていく…。
それは、闘い、病に斃れた死者の屍の上に立って、病み、腐りきった社会を健全化していく新たな闘いである。
我々は、その泥臭い闘いの入り口に、まだ立ったばかりだ。
※本稿は、twitter連投分に大幅に加筆したものになります。