「わたしはプロの〇〇です」と自称する人に対する違和感

前から気になっているのですが、特にぼくの同世代、40ー50代がやたらと自分の事を「〇〇のプロ」だと自称する現象によく遭遇します。

コロナ絡みで、学者が自分のことを「プロの研究者」と自称するのも見かけた。
悪いけど、「はあ…?」て思いました。

こないだ、関西の街歩き系の番組で、大阪でかき氷専門店を営む女性が出てきたのですね。

彼女は、自分の子どもたちに美味しいかき氷を振る舞っているうちに、
こだわりが出てきて追求を始め、ついには店を出すに至った。

昼休みには、毎日のように、ほかのかき氷店でかき氷を買って食べたりしているのですが、

別にマーケティング調査や研究をしているわけではなく、
 
「好きだから」「癒やしです」と言いながら氷を頬張って満足そうにしている。
 
 
そりゃ結果的に、商売につながる知見にはなってるんでしょうが、ほんとにかき氷が好きなんだなぁ、という感じ。
 
で、午後から厨房で「新メニューの開発」をするのだけど、
 
シロップの調合の具合、氷の舌触り、氷にかけたときの溶け方…みたいな視点で詳細に検証するわけです。どうやら、シロップによって氷の作り方を変えないといけないみたいなんですね。
 
そんなことまで「素人」は到底思い及ばない。
 
どう見てもプロ中のプロです。
 
でも、思ったんですよね。
 
多分、彼女は、自分のことを「プロのかき氷職人」だの「プロの氷菓子プロデューサー」だの、絶対名乗らないだろうな、と。「好き」を自然に追求してそうなっている。
 
ライバル店にマーケティング的に「打ち克つ」なんてことも考えていない。
自分の「好き」を人と共有したい、て純粋な思いで毎日かき氷を作っている。
 
けど、彼女が事業を拡大して、2号店、3号店を作るようになって会社を大きくして、全国展開も始めて、
新規メニューの開発も手掛ける「菓子職人」を募集するようになると、
きっとその人たちは「自分は単なるバイトじゃありません。プロです」なんて言うんだろうな、とも。
 
そう考えると、「プロ」というのは、多分に資本主義的色合いをもった言葉なのではないか、と思えてくるのです。
 
思えば、新自由主義の台頭とともに、「プロ」を自称する人が増えたように思う。
 
「プロのライターです」。自分も20代のときに言ってました。
  
「プロのデザイナーです」「プロのプログラマーです」「プロのエンジニアです」…
 
いちいち「プロの…」をつける。
 
団塊ジュニア世代でもある氷河期世代が、厳しい競争社会の中で生残っているという自負、または生き残れるか、という不安とともに「プロ」という言葉にすがっているのではないか。

生活費を稼ぎ、結婚し、家を建て、子供を作って、一人前。

…団塊ジュニア・氷河期世代の親世代には、そうした強固な古い「大人の理想像」があって、

それが子ども世代に対する呪いのようになっている。

氷河期世代は、特に生き残るものと、脱落するもの…といった「勝ち組」「負け組」がきっぱり分かれ、結婚・出産による家庭形成はおろか、満足に仕事も得られないといった人たちが多くいます。

ぼくもライター時代、「プロのライターです」と自称していましたが、
「俺はこれで飯食ってんだ。そのへんの趣味でやってるブログライターと一緒にするな」という意識が働いていたように思う。
 
「プロの…」を言い立てないと、自尊心、自己肯定感を保てない。

40-50代の「プロ自称現象」は、そんな世相の反映のような気がします。
 
もっと肩の力を抜いて生きられる世の中になったらいいな、と思います。
 
かき氷専門店を営む女性が、とても輝いて見えました。
 
ああいうふうになれたらいいな、と思いました。

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ドン マッツ@反カルト
統一教会関連記事は、無料で公開していましたが、字数が多いので改めて有料設定しました。後にマガジンとしてまとめた際、改めて加筆して販売する予定です。 既にサポートいただいた方には申し訳ありません。