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『都市への回路』より、演劇について。

 安部公房『内なる辺境 / 都市への回路』を読んだ。大変興味深い内容であった。

 連作エッセイ『内なる辺境』と、インタビューが文字おこしされた『都市への回路』が連ねられた作品である。今回は、特に『都市への回路』についての感想を述べたい。

 安部公房は僕の敬愛する作家の一人である。小説作品をある程度読み切ると例にも漏れずエッセイやインタビューに触れ、作家のより深奥に近づきたくなるものだ。今回も『壁』や『砂の女』はもちろん、『箱男』、『密会』、『他人の顔』など新潮文庫で出版されているものに関してはほとんど読み終えた為、このエッセイに辿り着いた訳である。

 『都市への回路』を読んで、まず一番に驚いたのはインタビュワーのクオリティの高さだ。塙嘉彦氏という人物である。

 この時代の東大文学部はやはりすごい。文壇のスターはもちろんこのようにそれを支える人達も輩出している。最近は東大卒の小説家なんて随分減ってしまったのではないだろうか。(偉そうに言えないけれど。)安部公房自身も彼をこう評している。

書くことには集中があり、対話には挑発があり、談話には自由がある。この長時間インタビューは、さいわい塙嘉彦君という聞き手を得て、その二つの要素を兼ね備えることが出来たように思う。(あとがき)

 このような編集者は現代になかなかいないのではないだろうか。安部公房という偉大な作家を挑発し(もちろん知的な意味において)、会話を引き出している。1970~80年代あたりの文壇の盛り上がりは是非リアルタイムで経験したかったと常々思っている。

 さて、この中でも特に〝演劇について〟の節がとても興味深くあったので着目してみたい。

 僕自身、観劇したことは一度しかない。村上春樹原作の舞台『ねじまき鳥クロニクル』である。

 今年の二月に東京でギリギリ観ることができた。仙台に住んでいると劇団四季がたまにくるくらいだから、大学生になってようやく舞台に触れ始められるようになった次第である。感想としてはいまいちだったんだけれど、演劇というものの面白味に触れることはできた。今年は演劇をけっこう観に行く予定だった為、現状は残念な状態が続いている。

 だから、偉そうに語る資格はないのだけれど、安部公房が唱えた「現代劇と翻訳劇を巡る議論」にとても共感を憶えた。公房はこの節で次の様に指摘した。

僕らにいま必要なのは現代劇であって、翻訳劇ではない。たとえばアメリカで『友達』をやる場合に、たしかに髪の毛が赤かったり、目が青かったりするだろう。しかし、それはあくまでも本質ではなく属性にすぎないんだ。

 これが指摘するところは、夏目漱石の『現代日本の開化』が重なる。漱石はこの文章で、日本の外から迫られた文明発展を上滑りと表現した。公房が指す〝翻訳劇〟は、上滑りの演劇輸入と言い換えることができるだろう。公房は、チェーホフの『桜の園』を例にとり次のように述べる。

たとえば、チェーホフの『桜の園』を、もし仮にやるとした場合に、僕だったら、たとえば北海道を舞台にするとか何とかしてやるだろうと思う。決して、あの変なロシアのチャンチャンコみたいなものを着て、カツラをかぶって、アイシャドーをつけてはやらない。あんな恥ずかしいことはとてもできない。ベケットでさえ日本では赤毛でやるだろう。あんな無茶なことはないよ。

 属性にとらわれ、形式的に文化を輸入することへの苛立ちが覗える。これは、現代において余計に顕著になっているのではないだろうか。

 例えば、○○の映画化。日本は純粋な映画作りを放棄したのではないかと思えるくらい、映画館にはこの文字が溢れている。その過程で、本質的でアクチュアルな移行がなされているだろうか。例えば、セリフをそのまま喋っているだけではないのか?これは、映画『ノルウェイの森』を観た時に切に感じた。小説に出てくるセリフをつらつらと話すだけで、わざわざ映画にした意味が分からなかった。(それとは対照的に、同じく村上春樹作『納屋を焼く』を原作とした韓国映画『バーニング』は素晴らしかった。)

 巷に溢れかえっている「○○の△△化」は、ひとつの作品を使い回している印象しか受けない。安部公房が実際に『桜の園』を安部公房スタジオで表現していたら、日本の現状は変わっていたかも知れない。

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