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本棚のない文学部学生。

 近年、活字離れがよく取り沙汰されるが、いち文学部生として少し考えたことをまとめたい。

 読書を取り巻く現状として、近年よく叫ばれることではあるが、読書という行為自体に割かれる時間がほとんどないという点がある。(以下を参照)

 さらに、一般的な文脈上で語られる“ 読書 ”とは、いわゆるビジネス書や自己啓発系の話題作を読む、ということを指していて、小説は含まれていないと感じている。書店の話題書のコーナーに小説が置かれていることはほとんどないし、芥川賞や直木賞が発表された時に儀礼的に置かれるばかりである。新作を出す度に大々的にプロモーションされているのは、村上春樹氏だけではないだろうか。小説を取り巻く現状は厳しいと言わざるを得ない。

 そして、僕が1番に衝撃を受けたことは一重に「文学部に身を置く学生の小説離れ」である。どんなレベルの大学であっても、少なくとも文学部に出願を決めるインセンティブのひとつとして読書を嗜好しているものだと思っていた。しかし現実は日常的な読書習慣がない人がほとんどで、驚くことに旧帝大学といういっちょまえに語られがちな僕が通う大学の文学部生ですらこれに当てはまる学生がいるのだ。

 さすがに全く読まないという人は少ない。そして、そのような学生に見られる顕著な特徴は、「ファッションとしての読書」を嗜好していることである。“ 小説を読むという高尚な行為がかっこいい ”という認識なのであろうか。まとまった時間を手にした時だけ、読書に耽る自分を演出する。

 例えば、僕が好きな村上春樹の『スプートニクの恋人』にはこんな一節がある。

ぼくとすみれはいうなれば似たもの同士だった。二人とも息をするのと同じくらい自然に、熱心に本を読んだ。暇があれば静かなところに座って、いつまでも一人でページを繰っていた。日本の小説も外国の小説も、新しいものも古いものも、前衛もベストセラーも、それがいくらかなりとも知的な興奮をもたらしてくれるものであれば、なんだって手に取って読んだ。

 この本が小説を指すことは言うまでもない。小説を嗜好するという感覚は、まさにこの一節が象徴するところだと思う。買った本をいち早く読みたくて思わず公園のベンチでページを繰ってしまったり、話にのめり込むあまりにセリフだけ流れるように追ってしまったり、あらゆる没入感こそが小説のもつ力だと思うし、小説を嗜好する理由はまさしくそこにある。

 「ファッションとしての読書家」達には必ずと言ってもいいほど、ひとつの認識がある。それは、○○は読んでおきたい…などといった小説を教養として捉える認識である。これは、学校教育が悪影響を及ぼしていると思う。そもそも、大学試験に小説が入ってくることに僕は疑問を感じる。せめて、記述試験でのそれなら理解できなくもない。しかし、マーク試験で問われる小説の答え(そもそも、そんなものがあるはずもないのに。)が選択肢の中から消去法で選出されるという無粋な行為に疑問を抱かざるを得ない。

 小説は文芸と言い換えられるように芸術作品であるから、仮に知らなかったとしてもいかなる不利益を被ることはない。『こころ』を読んで日本国籍が付与される訳ではないし、『檸檬』について語ることが高校卒業資格に該当している訳でもない。小説を読むと言う行為は極めて個人単位の営みであるし、義務でも強制されるものでもない。ただ、文学部という学部に際して言わせていただくと、小説を読むという行為をファッションとして捉えている学生にはあまりいて欲しくはない。好きな作家に出会い、その作家の作品を全て読まざるを得なかった気持ちが理解出来ない人に、文芸を語って欲しくはないと思う。

 別に紙を信仰している訳ではないから、電子書籍でもなんでもいいのだけれども、比喩的な意味においても「本棚のない」文学部学生が多すぎる。文芸に限らずとも、芸術を楽しむ余地のない人生に果たして彩りがあるのだろうか。高度に情報化された現代で、小説を読むという句読点を置くことがどれほど心地よいかは言うまでもないのだけれど。

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