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弱者同士で共感・仲良くするのは見下して安心できるから?

※自分は弱者という表現は好きでありませんが、記事を書くうえで便宜上そういう表現をしています。

自分のような社会的に弱者の人間は、どうしても自分と似てる人を探そうとします。

同じ弱者同士で群れて、安心したいからです。

自分と同じように鬱だから好き、とか弱者だから好き、毒親持ちだから好き、とか。

でも一つ思うことがあるんですよね。

それって、自分が相手を見下して安心できるから好きなの? と。

自分も高校生~大学生のとき、自分と同じ境遇の人と仲良くなりたくて、仲間を探そうとしました。

高校生の時に出会って、数年単位で関係が続いた人がいます(以前書いたTとは別人)

言葉の節々から感じる相手からの安心感。

そこにどうしても”違和感”を感じてしまいました。

「あぁ、この人は自分を心のどこかで下に見てるから、あるいは自分が弱者だから関係を続けてくれているのだな」

「もし自分がリア充になったら、この関係は切れるんだろうな」

って。

弱者同士で傷の舐めあいをすることでしか続けられない友達付き合いに、どこか嫌悪感を感じたんです。

(勿論その人は根っこの部分では良い人だし全然恨んだりしてません)

実際 当時仲間を探す過程で、少しでも自分と違う人種だな、と感じたら関係を切られたこともあります。

よく薄っぺらい表面上の人間関係なんかない方がマシだ、って言いますよね。

弱者同士の人間関係はまさにその「薄っぺらい上辺の人間関係」であることが多いです(当然きちんとした関係も築いてる人も多数います)

相手が自分より格上の存在になったらすぐ関係が切れる。
自分と同じ弱者じゃなきゃ相手を認められない、安心できない。

だから自分は
「相手が弱者だから好き」
「相手が充実してるから嫌い」

とか、そういう尺度で人間をみるようなことは極力したくありません。

弱者でなければ弱者の気持ちは分からない、というのは一理あると思います。

自分は中学生時代不登校、高校は通信でしたが、普通の人間からすれば不登校になる理由なんか理解できないかもしれません。

普通にコミュニケーションが取れる人からすれば学校は楽しい場所ですからね。

自分も弱者です。だから同じような人達と関わる時間も当然好きです。

この人達なら自分の境遇・考えをある程度理解してくれる、だから安心できます。

でも弱者以外の人達と関わる時間を否定したくないな、とも思うわけです。

仲良くなれるかどうかはまた別問題ですが(というか基本的に不可能)

明るいか暗いか、弱者か否か。ではなく相手に思いやりを持てるかどうかが本当に大事だと、今まで生きてきて思いました。

「弱者だから必ず弱者に理解がある、弱者じゃないから無神経なことを言う」

これは単なる偏見でしかないと思いました。

同じ弱者でも人を傷つけることに抵抗のない人間もいました。

相手が弱者ではないからといって100%仲良くなれない訳ではありません。

実際大学生の時にできた友人の一人に明るくてアウトドアな人がいました。

極僅かな確率で、自分とは全く違う性質の人と仲良くなれるときがあります。

自分はその僅かな可能性に、常に何か期待しているのかもしれません。

受け身な性格であるが故の、希望的観測っていうやつですね……。

相手の立場がどうであれ、友達として平等に接することができる、フラットな人間関係が欲しいです。

自分だけが一方的に友達と思い込んでるかもしれないのが怖くて、人を友達だと認識できない。

世間一般の親友=自分の中での友達

常に頭の中で余計なことをごちゃごちゃ考えている。

今までの人生の中でこびりついた、捻くれた考えが自分の首を絞め続けています。

そんな自分はどうしようもない、ただの夢想家、あるいは理想主義者かもしれませんね……。

孤独という呪縛からは、もう一生逃れられないのだと思います。


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