ほんの祭り
河出書房のキャンペーンコーナーはどちらですかとたずねると「えっ、河出の………キャンペーン………どんなキャンペーンですか」と書店員は怪訝な顔をした。2冊買うとブックカバー、5冊買うとトートバックがもらえるキャンペーンですと答えると、書店員は眉尻を下げ、あたりを見渡した。何度頭をふっても救ってくれる同僚がみつからないので、少々お待ちくださいねと言い残し、従業員専用と貼り紙のある扉に飛び込んでいった。バックヤードと売り場の間の仕切りが薄いのか、うっすら話し声が聞こえてくる。どうやらバックヤードに居合わせた何人かに声をかけているが誰も要領を得ないらしい。従業員専用扉の前で待っていたが、扉から出ている店員は皆、私と目が合うとすぐに目を逸らし早足に去っていく、ような気がする。ありもしないキャンペーンをでっちあげて困らせてようとしているヤバイ客とでも思われているのだろうか。だとしたらずいぶんと地味な嫌がらせだ。しかし「えっ河出、河出なの?それ?聞いたことないよ。勘違いじゃない」と間仕切りを貫通する強い調子の声が漏れてきた。もしかして実際の私は妄想の中のヤバイ客そのもので、ただ私だけが自分をまともだと狂信している状態なのでは、と頭の中で疑念をめぐらせていると、視界がどんとん狭くなっていった。緊張したり不安になるといつも、筒から世界を覗いているような感じになる。
スマフォをとりだし出版社のホームページを調べる。別の出版社のキャンペーンだろうか、もしかしたらキャンペーン協力店ではないのか、キャンペーン自体終了しているのではと危惧したが、間違いなく、この店舗で実施している旨が記載されていた。キャンペーンはこんな感じで大々的にやってますと、大くて華やかなPOPで飾られた書棚の写真がホームページに載せられていた。POPは光沢のある黄色地に「We♥河出書房」という赤い文字が躍っている。自分の担当の棚でなくても記憶に残ってもいいくらい目立つはずなのにどうしたことだろう、扉が開く音がするが店員は素通りしていく。何度も扉の開く音を聞いたが、先程の店員はなかなか戻ってきてくれなかった。
十度目くらいのきいいいという音で先程の店員が現れた。変な客と思われたくないので精一杯の笑顔をつくって出迎えたが、一瞥くれたかと思うと「こちらです」という言葉を置き去りにして、つかつかと棚と棚の間を進んでいく。慌てて早足で追いかけた。到着したのは、エスカレーター乗り口やエレベーター入口からは遠く離れた静かな棚だった。入店してすぐにこの棚の前を通り過ぎていた。「書店で特典を差し上げるのものではないんですよね。黄色い帯の応募券を所定の枚数集めて河出さんに送ってください。弊店では特典を用意していませんので」と先程とはうってかわって、こちらの目を見据え自信ありげな勇ましい眉毛で説明する。いやいや、ついさっきまでアンタなんも知らなくてすごいキョロキョロてしてなかった。というか応募方法は知っているんだよなー百近い棚がそびえている店内のどこにお目当てがあるのか知りたかっただけなんだけどなーいちおう河出文庫のコーナーも見てきたんだけどなーけどキャンペーンやらフェアらしきものはやってないようだったので、特別に別棚でフェアをやっているのかなーなんて、お聞きしたかったんですよねーなんてことは一切漏らさずに「あーそうなんですねーご丁寧にすいません。ありがとうございます」と答えると、忙しそうに棚の向こうへ消えていった。店員の背中を見送りながら、なんで自分は卑屈な感じで心にもないことをへいこらへいこら垂れ流しているんだ、普段は頭になにも言葉が浮かばなくて口数少ない癖にこういう時だけ、と思いついてもなんの得にもならない非生産的な思いがふつふつ沸き上がってきた。そして案内された棚を見ると、スペイン国旗の明度を最大限高めたような華やかなPOPはなく、農村の無人野菜販売所のように控えめに素朴な感じで帯本が低く薄く平積みされていた。ところどころ欠品になっているのか、平積み台の底が見えている。急に空調の運転音がごうんと響いた。空調を意識したら、背中の汗が急激にひいてぶるっと震えた。二十冊の中から七冊を選んでレジにもっていった。丁寧にカバーをつけてもらった。
入口そばの棚では「カドナツ」「ナツイチ」「新潮文庫の100冊」「読まずに死ねるかフェア2021!」と元気の良いPOPたちが我が我がと競い合っていてた。なんでこちらのお祭り棚には入れないのだろう。しかしだ、歯欠け状態になっているのは、補充が間に合わないほど、売れ行きが好調なんだろう、別に祭りになんか参加しなくても平気なんだろうな、と自分のことのように言い聞かせてエレベーターの呼び出しボタンを押した。