人間椅子「色即是空」
遅ればせながら。ニューアルバムを入手してはや三週間。前作「苦楽」から二年ぶり23枚目のオリジナルアルバムと言うことでまたさらに歴史が積み上がった。
私は音楽についてはドシロートなので、楽曲の解説は先達の皆様にお任せするとして、いろいろ思ったことをツラツラと書き連ねてみる。
まずはこのアルバムタイトル「色即是空」。えらいまたストレートと言うか、これまでの楽曲(虚無の声とか)でもフィーチャーされていた仏教用語をド直球でブチ込んできたな、と思った。
般若心経の中で「色即是空、空即是色」と言われてるのは人間椅子の檀家でなくても聞いたことくらいはあるものだが、その概念は難しい。改めてウィキペを見ると「この世のすべてのものは恒常な実体はなく縁起によって存在する」とある。なるほどわからん!
ただ、鬱で死にそうになっていた頃から奇跡の復活を遂げて今に至る過程で「モノに執着していた自分」からかなり脱却できた気がしていて、なんとなくその意味がフワッと理解できるようになった気がする。気のせいかも知れん。
他の記事にも書いたが、若い頃は「モノこそ全て、コトなど過ぎ去れば消えてしまうから無価値」などと思っていた。しかし人生完全に後半戦に入り、近親者がその生涯を閉じる場面に立ち会うことも増えた。自ずと「自分はどう死ぬのか」と考えることになる。
そこでフト気づいた。自分が現世で買ったり、集めたりして愛でているあらゆる「モノ」は、自分が死んだ途端に全く無価値になると言うことに(もちろん遺族にとってはそうで無いものもあるかも知れないが)。どんなに素晴らしいモノでも墓には持っていけないのだ。
一方、自分が経験した「コト」にはカタチこそないものの、脳がボケない限り死ぬまで残り続けるし、誰にも奪われる事もない。これこそが人生の価値なのではないか?と気づいた時「あっ」と思った。
どっちみち死んだら消えてしまう事に変わりはないけど、時間と共に壊れたり腐ったり錆びたり朽ちたりする「モノ」よりも、いつまでも褪せない思い出、経験、スキルなどの「コト」にこそ価値がある…
このことに思い至った時、私はなんかスーッと心が楽になった気がした。例えばそれまで、何か大切なものをうっかり壊してしまったりしたら「せっかくの◯◯ガーッ」と激しく落ち込んでいたものだが、今では「形あるものはいつかは滅びるのだから」と諦めることができるようになった。
そんなようなことが脳裡を掠めながら新譜をしばらくヘビロテしていた。前作「苦楽」のときにはアタマの「杜子春」でガツンとやられた感があったけど、今回はMVの先行公開もなかったためか、そこまでの感覚はなかった。
しかし、他の多くの楽曲がそうであったように、聴けば聴くほどスルメのように味わいが滲み出てきて、いつのまにかまた熱く心が揺り動かされるようになった。まあ誰のどんな音楽でも似たようなところはあると思うけど。
今のところ、先行してラジオで放送された「狂気人間」と一曲目の大曲「さらば世界」、そして最後の「死出の旅路の物語」にだいぶギュッとやられている。特に「死出の~」のワジーの科白「第○の扉!○○の××!」のところが何でかわからんけど非常に良い。最初「パラッパラー」にズッコケたけど。
あとは「地獄大鉄道」で踏切の警笛をギターで再現してるところは痺れる。あの音程は「短9度」という不協和音らしく再現すること自体は簡単なのだが、最初は一方向だけなのがその後「あっ下り線も来た」みたいになるところが手が込んでいて思わずニヤリとしてしまう。
あとはジャケットの「深沙大将(じんじゃだいしょう)」なんてのも初めて知った。描いたのがみうらじゅんというのも実に味わい深い事実だし(千手観音ならみんな知ってるけど)えらいまたマニアックな選定やなと。
この「大将」、見れば見るほど異形である。髪の毛は逆立ち、牙をむき出し、首回りに髑髏、臍には人面、膝に象の顔・・・悪夢でしょ普通に。こういう日本の仏像のイマジネーションの飛びっぷりとその造形の迫力には舌を巻くしかない。
そんなようなことで11月の羽田のライブを今や遅しと待ち構えている昨今である。
ちなみに上の方でさも「俺はもう物欲からは解脱した」かのようなことをエラそうに書いているが実はそんなことは全然なくて、キャニオンのスピードマックスCF SLXとかMacBook Air 15’とかApple Watch Ultra2とかジムニー5ドアとか、煩悩は留まることを知らない。やはり自分ごときはただの凡夫なのだ・・・
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