『世のため人のため』は、効率の良い"富の分配"
突然ですが、貴方は『世のため人のため』を『きれいごと』と思いますか。
「世のため人のためになることがしたい!」と声高に叫んでる人を『偽善者』だと思いますか。
僕としてはケースバイケースで、人や物事によっては「偽善的と感じる」ことはあります。
ただ、感情は抜きにして、本質的な"世のため人のため"というのは、偽善行為などではなく、資本主義社会の問題解決につながる、富の分配として全て肯定すべきものと思っています。
こんにちははじめまして。
滋賀県湖南市在住、『お金以外の資本で豊かに暮らす村づくり』を目指す、Dongree代表のドリーと申します。
Dongreeという事業で僕がやっていることは、2015年開業時のWEB制作から始まり、京都では4年ほどコーヒースタンドを経営、滋賀に移住後ブックカフェの店主をしたり、コーヒーロースターの焙煎士をしたり、滋賀県湖南市の地域おこし協力隊として地方創生にまつわる活動をしたりなど、その時々で常に移り変わっています。近々DIYリノベーション事業も始まるので、大工さんにもなります。
日々の判断基準となっているモノの考え方、価値観を自分なりに整理して、より解像度を上げていくために、時折こうしてnoteに綴っています。
今回は、行政や地域コミュニティと密接に関わり、地方創生に携わるようになって、より強く意識するようになってきた『世のため人のため』という事柄について考えてみたいと思います。
自分"だけ"の幸せは非効率
僕は、"自分の幸せ"、というモノの考え方を信じてません。自分単独で幸せになる方法なんて存在しないと思っています。
自分の活動方針を考えるときは、自分の幸せを追求するためにもまずは回りから幸せに、という設計をしています。そもそも自分を取り巻く世の中が幸せじゃ無いと、自分の幸せなんて成立しなかろう、と思うから。
「だから僕は『みんなで豊かに暮らせる村づくり』がしたくて一生懸命働いてるんです。」
そんな話をすると、「なるほど、"みんなのため"というのはわかりました。けれど"貴方が純粋にやりたいこと"ってどこにあるんですか?」って聞かれることがある。
みんなのために、と、自分のために、が完全に別の目的であるという考えだろうか。
みんなで豊かになれば、楽しいことは増えるし、助けてもらいやすくなるし、やりたいことなんて考えるまでもなく毎日充実してるだろうって思うんだけど、なかなか伝わらない。どう表現したものか悩む。
もちろん心のどこかで『良い人ぶりたい、かっこつけたい』って気持ちはゼロじゃないんだろうけど、『みんなで豊かに』は、別に親切心だとか愛情なんかとは切り離して、自分なりにめちゃくちゃロジカルに考えてのことだ。
豊かな人がいるから、豊かな食事が楽しめる
例えば、町にとても美味しいと評判のオムライスのお店があるとする。30代男性の店主が一人で切り盛りしている小さなお店だ。
卵は実際に店主自ら養鶏場まで足を運び、豊かな自然の中で平飼いされているものを選ぶ。チキンライスは、自家製のトマトから作られたケチャップと、こだわりの自家米でつくる完全オリジナル。
そして開業までの下積み時代には、フランスのレストランで10年働き、そこで学んだ技で作られるフワフワで美しいオムライスは、この店でしか味わえない至高の逸品。
一皿2,000円。毎日長蛇の列で、席につけるまで大体30分くらいの待ち時間がかかる。
ランチタイムとしてはちょっぴり値段はするし、並ぶ時間は少し大変だけど、"たまの楽しみ"としては十分手がとどく。
そんな名店が自分の住む町にあったら、嬉しい。
しかし、そんな美味しいオムライスを食べるためには、作ってくれるその店主自身が豊かな状態でないといけないと思う。
お店をやっていけるだけの十分な収入があり、こだわりの卵を仕入れることができる信頼関係があり、自家製のトマトや米を育てる土壌がある。
そしてフランスまで行って、経験を積むことができた時間。
そんな店主の豊かな環境が、美味しいオムライスとなって世の中に提供されている。
だからこの店主は、一皿3,000円の高級オムライス店を大成功させて、豊かになっている人。ではなく、"豊かさを使って"美味しいオムライスを食べさせてくれる、『世のため人のためにになってる人』なのだ。
効率的な豊かさの還元
さらにここでもう少し想像してみる。
この店主が一皿3,000円の絶品オムライスを、お店で出せるようになるまでにかかったお金と時間について。
【開業資金】
個人の小規模なカフェレストランの場合500〜1000万円
【日々の営業にかかる費用】
家賃・光熱費・水道代・保険料・その他諸々で月々30万円
【フランスでの経験時間】
日本での調理師免許取得と飲食勤務2年
フランス語の習得3年
フランスでのレストラン勤務10年
日本帰国後の開業準備1年
ざっと見積もってこれくらいだろうか。
さて、これらの数字と『一皿3,000円』を比べてみてどうだろう。
僕はこのオムライスは『超ド級のお買い得』だと思う。
1000万円とか月々30万円というお金がかかっていて、15年という時間を積み上げて出来上がったオムライスを、ほんの30分ほどの待ち時間と3,000円で食べれるなんて、めちゃくちゃお買い得じゃないですか。豊かさの価格破壊。
世の中の豊かさって、こういうところでめちゃくちゃお得になって自分たちに返ってきてると思うんです。
音楽にしろ、映画にしろ、作り手が豊かで、富が集まれば集まるほど多くの人に作品が届けられるようになって、さらに多くの人が楽しめる。しかもそれらが生み出されるコストに比べて、『超ド級のお買い得』で。
つまり豊かな人(こと)ほど、世のため人のためになってるはずなんです。
だから『世のため人のため』であろうとしてる"豊かな人や物事"を「きれいごとだ!」っていって封じようとすると、『超ド級のお買い得』が世の中から減ってしまって、損をするのは自分たちのほうなんです。資本家の寄付や慈善事業もそうで、「売名行為だ、きれいごとだ!」って叩いちゃうのは、世の中に富が回りにくくなって、みんなで不幸せになっていくことに繋がってるんです。
だから、もっともっと世のため人のためなことが溢れたほうが、みんなが効率よく幸せを享受できるはずです。
たとえ最初は偽善的にはじまった世のため人のためという行為であっても、その行為を止める理由はなくて、むしろ『本当に世のため人のため』となるように応援すべきだと思います。
何よりも自分たちがお得になるように。
お金だけじゃない『富の分配』
最後に『富の分配』について想いを巡らしたいと思います。
AIやテクノロジーの発達、そして資本主義の限界や、格差社会について議論される中で、最近話題なのが『富の"再"分配』。
今後の社会において、大資本による"正しい再分配"が行われなければAIやテクノロジーはより深刻な格差社会を生み出すだろう、とも言われているけど、これはあくまで資本=お金、という前時代的な考えだと僕は思っています。
さきほどのオムライス屋さんの例でいうと、『世のため人のため』で定義される豊かさってお金だけじゃなくて、"時間"であったり、美味しいと感じる"喜び"であったりするわけで、大資本家だけに頼るものじゃないはずです。
もっと資本というものを多角的に捉えて、『みんなで分配』していけばいいんだと思っています。
そもそも"再"分配という表現がよくないです。なんだか富の集中が前提条件の、お金持ちだけが取り組む問題、みたいなイメージがしてしまうので。
お金って人類全員でつくってる共同幻想なので、みんなが当事者意識でもって取り組まないと、変わりっこないんです。お金持ちが分けてくれるのを待っていても仕方ないし、そんなことは起こり得ないんです。
それよりも、みんなが"お金以外の資本"を大事にし始めたら、お金の価値は減っていくし、そしたら段々とお金持ってても仕方ない世界になっていって、資本家に集中している富も、自然と世の中に分けられていくんじゃないでしょうか。
だから僕は『世のため人のため』を恐れずに続けていこうと思ってます。
自分もみんなも豊かになるのに言い訳はいらないんだから。