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1+1と1+1=1+1の違いーー小泉進次郎、にこるん、プラトンの『メノン』の抱える問題ーー

 1+1と1+1=1+1は同質のことを言っているが、実際は持っている影響力や哲学的な訴求の力はまったく違う。
 1+1は単に、問題提起しかしてない。
 しかし、1+1=1+1は、1+1と1+1が同質であるという結論を出しているし、問題提起が公式に含まれてもいる。
 それ以上に重要な問題は、1+1=1+1は結論を出しているがゆえに、周囲に及ぼす問題提起の力と言うのが大きい。
 クリスチャーノ・ロナウドの奥さん・ジョルジョーナが、「1+1」と突然、Instagramに、ポストしたのと、「1+1=1+1」とポストしたのとでは、どちらが波紋を呼ぶだろうか。
 明らかに、「1+1=1+1」の方だろう。
 ジョルジョーナはなぜこんなことを言ったんだろうとみんな考えたくなるからだ。
 昔、ポストモダン時代の哲学者・ヴィトゲンシュタインは、「一本と地球で言うのと、一本と火星で言うのは違う」ということと、その意味、科学的かつ、グローバルな言語で言語活動はやった方がいいと言い、言語ゲームでしかないのだから、という恐ろしい内容の哲学を展開したことがある(僕も詳細はわからないので、雑駁にいってそんな感じだ)。
 つまり、ジョルジョーナが、ある状況で、数学上、小学生でも知ってることでも、哲学的な意味が含まれてそうなことをポストすれば、(世界でInstagramのフォロワー数がいちばん多い夫のクリチャーノ・ロナウドが、それを紹介したら)、世界的に広まるし、とてつもない影響力になるという問題と、ヴィトゲンシュタインの実際に伝えたかったであろう問題は似てる。
 モデルというのは、キャットウォークの時に服を着て歩いてるだけで、何も言わない。
 モデルはステージで美しい服を着て歩くだけで、価値が高いからだ。
 この問題と、小泉進次郎の問題は、実はかなり似ている。
 小泉進次郎は滝川クリステルという、美人アナウンサーと結婚したが、以前、こう発言して、世間の波紋を読んだ。
 「この問題は、解決しなくてはならないから、解決しなくてはならない」。
 確かに、実際何も言ってないようだし、小泉進次郎は絶句しただろうし、普通に考えれば、「この問題に関しては、検討する余地があるので、今は何も言えません」とか言った方が得策なのに、なぜか小泉進次郎がこのことを発言した。
 小泉進次郎は、文脈こそ忘れたが、「悲劇であっていいわけがない」、ということも発言している。
 喜劇は結婚と昔から言うが、小泉進次郎はダンテにはほどではないにせよ、ある種のコメディアを体現してるのだ。
 と同時に、彼は日本社会の病巣、悲劇とも言えないおぞましい状況を訴えかけてるようにも見える。
 つまり、「自民党の敵である社会主義などのリベラルの人間が不必要な圧力をかけるから、僕はバカな発言をしてしまうのだ」と言ってるように見えるし、それは僕だけじゃないと思う。
 小泉進次郎はおそらく、首相にはならない。
 だが明らかに、人気があるし、世間に問題提起をした。
 人気の背景は、彼が被害を受けたにも関わらず、人生を克服しようとしてるその姿勢にあるのかもしれない。
 つまり、能力よりもストーリーを買われているのだろう。
 にこるんも似ている問題を抱えていて、彼女が抱えている問題は、外面の美しさばかりを強調する点と関係がある。
 もう少しアピールの仕方が違かったら、政治的な発言も寛大を受けただろうし、ファンの結婚式でサプライズをしたことも、受け入れられただろう。
 それでもかっこよさを選ぶのが、にこるんだ。
 本人の中で抱えた問題があったとしても、過度な弁明はしない。
 かっこよくない言い訳に聞こえるからだ。
 プラトンの『メノン』にも、メノンというイケメンが、ソクラテスに徳についての質問を投げかけるが、ソクラテスが言うに彼は、「自分がかっこいいから、自分が何をされても当たり前だと思ってる」人物らしい。
 これはその後に続く、「1+1はなぜ1+1が1+1かを問わない、つまり質を問わないことが問題だ」と言っているし、ソクラテスは数学をやめた理由だとも話している。
 しかし、おそらくソクラテスが言いたかったのは、こうだろう。
 「美しい人は美しい」でも生きていけるから、「1+1=1+1」でもいい。
 つまり徳を追い求めるというのは、内面、外面両方の美質を追い求める姿勢と違い、美人の美質の外面を重視して崇拝する眼差しにより成り立っていてかつ、外面の美質の体現者にはないものでもあり、外面の美質を崇拝してしまう人にしか備わらないものだと言うことなのだろう。
 徳というのは、なぜかモテない人が追い求めてしまう。
 そして、徳と表面だけの美は似ている。
 内面の美と美学は似ているが、徳と表面だけの美とは前述したあたりが違う。
 なぜ外面だけが美しいのか、内面が外面に向かって美しいのか、内面を重視しないことによって内面も美しいのかと、どうすれば、外面だけの美はもっと美学的に優れたものになるのかは、難しい問題だ。
 しかし結論を言えば、量を切り離すことにあるんだろう。
 限定された外面の美というのは成り立つし、量の問題と外面の美の問題はセットにして語られがちだが、実は相容れないこともあるからだ。
 それでもアレキサンドロス大王は、A「支配する領土が、もうなくなってしまった」というほどに、大きな面積の領土を取りに行ったけど。


了 

南野 尚紀 

 1+1と1+1=1+1は同質のことを言っているが、実際は持っている影響力や哲学的な訴求の力はまったく違う。
 1+1は単に、問題提起しかしてない。
 しかし、1+1=1+1は、1+1と1+1が同質であるという結論を出しているし、問題提起が公式に含まれてもいる。
 それ以上に重要な問題は、1+1=1+1は結論を出しているがゆえに、周囲に及ぼす問題提起の力と言うのが大きい。
 クリスチャーノ・ロナウドの奥さん・ジョルジョーナが、「1+1」と突然、Instagramに、ポストしたのと、「1+1=1+1」とポストしたのとでは、どちらが波紋を呼ぶだろうか。
 明らかに、「1+1=1+1」の方だろう。
 ジョルジョーナはなぜこんなことを言ったんだろうとみんな考えたくなるからだ。
 昔、ポストモダン時代の哲学者・ヴィトゲンシュタインは、「一本と地球で言うのと、一本と火星で言うのは違う」ということと、その意味、科学的かつ、グローバルな言語で言語活動はやった方がいいと言い、言語ゲームでしかないのだから、という恐ろしい内容の哲学を展開したことがある(僕も詳細はわからないので、雑駁にいってそんな感じだ)。
 つまり、ジョルジョーナが、ある状況で、数学上、小学生でも知ってることでも、哲学的な意味が含まれてそうなことをポストすれば、(世界でInstagramのフォロワー数がいちばん多い夫のクリチャーノ・ロナウドが、それを紹介したら)、世界的に広まるし、とてつもない影響力になるという問題と、ヴィトゲンシュタインの実際に伝えたかったであろう問題は似てる。
 モデルというのは、キャットウォークの時に服を着て歩いてるだけで、何も言わない。
 モデルはステージで美しい服を着て歩くだけで、価値が高いからだ。
 この問題と、小泉進次郎の問題は、実はかなり似ている。
 小泉進次郎は滝川クリステルという、美人アナウンサーと結婚したが、以前、こう発言して、世間の波紋を読んだ。
 「この問題は、解決しなくてはならないから、解決しなくてはならない」。
 確かに、実際何も言ってないようだし、小泉進次郎は絶句しただろうし、普通に考えれば、「この問題に関しては、検討する余地があるので、今は何も言えません」とか言った方が得策なのに、なぜか小泉進次郎がこのことを発言した。
 小泉進次郎は、文脈こそ忘れたが、「悲劇であっていいわけがない」、ということも発言している。
 喜劇は結婚と昔から言うが、小泉進次郎はダンテにはほどではないにせよ、ある種のコメディアを体現してるのだ。
 と同時に、彼は日本社会の病巣、悲劇とも言えないおぞましい状況を訴えかけてるようにも見える。
 つまり、「自民党の敵である社会主義などのリベラルの人間が不必要な圧力をかけるから、僕はバカな発言をしてしまうのだ」と言ってるように見えるし、それは僕だけじゃないと思う。
 小泉進次郎はおそらく、首相にはならない。
 だが明らかに、人気があるし、世間に問題提起をした。
 人気の背景は、彼が被害を受けたにも関わらず、人生を克服しようとしてるその姿勢にあるのかもしれない。
 つまり、能力よりもストーリーを買われているのだろう。
 にこるんも似ている問題を抱えていて、彼女が抱えている問題は、外面の美しさばかりを強調する点と関係がある。
 もう少しアピールの仕方が違かったら、政治的な発言も寛大を受けただろうし、ファンの結婚式でサプライズをしたことも、受け入れられただろう。
 それでもかっこよさを選ぶのが、にこるんだ。
 本人の中で抱えた問題があったとしても、過度な弁明はしない。
 かっこよくない言い訳に聞こえるからだ。
 プラトンの『メノン』にも、メノンというイケメンが、ソクラテスに徳についての質問を投げかけるが、ソクラテスが言うに彼は、「自分がかっこいいから、自分が何をされても当たり前だと思ってる」人物らしい。
 これはその後に続く、「1+1はなぜ1+1が1+1かを問わない、つまり質を問わないことが問題だ」と言っているし、ソクラテスは数学をやめた理由だとも話している。
 しかし、おそらくソクラテスが言いたかったのは、こうだろう。
 「美しい人は美しい」でも生きていけるから、「1+1=1+1」でもいい。
 つまり徳を追い求めるというのは、内面、外面両方の美質を追い求める姿勢と違い、美人の美質の外面を重視して崇拝する眼差しにより成り立っていてかつ、外面の美質の体現者にはないものでもあり、外面の美質を崇拝してしまう人にしか備わらないものだと言うことなのだろう。
 徳というのは、なぜかモテない人が追い求めてしまう。
 そして、徳と表面だけの美は似ている。
 内面の美と美学は似ているが、徳と表面だけの美とは前述したあたりが違う。
 なぜ外面だけが美しいのか、内面が外面に向かって美しいのか、内面を重視しないことによって内面も美しいのかと、どうすれば、外面だけの美はもっと美学的に優れたものになるのかは、難しい問題だ。
 しかし結論を言えば、量を切り離すことにあるんだろう。
 限定された外面の美というのは成り立つし、量の問題と外面の美の問題はセットにして語られがちだが、実は相容れないこともあるからだ。
 それでもアレキサンドロス大王は、「支配する領土が、もうなくなってしまった」というほどに、大きな面積の領土を取りに行ったけど。


了 

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