質問(22/7/22講義)①

みや竹:
第8回15段落の解説(7月22日アーカイブの1:00:00あたり~)に出てくる「〈私〉の持続」に関連する質問です。

以前から、「私・今・そして神」の185頁11行目と186頁3行目に出てくる「もし連続していなかったとすれば連続していないと分かる(ようには連続している)」(①)の意味を掴みかねています。
今回の解説の趣旨とも重なると思いますが、ここが、「もし連続していなかったとしても決して連続していないとは分からない(ように連続している)」なら理解できます。実際決して分からないと思いますし、「記憶による持続(世界)の構成」という永井先生の主張とも合致すると思うからです。
①は、そもそも〈私〉は〈今〉にしかないものだからある意味では開闢の持続などナンセンスなのだが、私の今の言語が時間を貫いているからこそ、その言語により、〈私〉を概念として把握でき、昨日の〈私〉もこの今の〈私〉も明日の〈私〉も、同じ《私》として、「連続している」とか「連続していない」とかの議論の俎上に載せることができる、という主張がベースにあって、その「議論の俎上に載せることができる」というところを、「連続していなかったとすれば連続していないと分かる(ようには連続している)」と表現している、ということなのでしょうか。それとも、実際に「連続していなかったとすれば連続していないと分かる」という主張なのでしょうか。

永井:
これは単に、ここでの私の「…である」「…でない」の捉え方が最初から反実在論的であるだけです。「もし連続していなかったとすれば連続していないと分かる(ようには連続している)」とは、そうでなければ「連続していない」とはいえない、という意味です。つまり、連続していないと分かる(ようには連続している)場合だけ、「連続していない」といえる、ということです。
これに対して、「もし連続していなかったとしても決して連続していないとは分からない(ように連続している)」という捉え方は最初から実在論的で、連続していたりいなかったりが認識可能性と独立に実在論的に成立するというっことを前提しているわけです。もちろん、その捉え方の必要ですが、結論的はそれは否定されます。

※関連リンク「哲学探究3 第8回」


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