質問⑩

質問⑩

みやたけ:5/13の講義に関連し、質問させてください。6段落の冒頭部分に関連して、永井先生は、ウィトゲンシュタインに反し、文法が形而上学的事実(〈私〉の存在)をあるように見せるのではなく、形而上学的事実(〈私〉の存在)を文法が取り込んだ結果、文法に形而上学的事実が反映されているのだという趣旨のことをおっしゃっています(アーカイブ動画では26分46秒あたり~)。(このまとめがおかしければご指摘ください。)これは、永井先生がこれまでもずっとおっしゃっていたことです(たとえば「私の2種の用法」に関連して文庫版「『青色本』を掘り崩す」245頁最後の段落、「私の言語の確実性」に関連して「私・今・そして神」203頁最後の段落、など)。質問は、ウィトゲンシュタインの主張のどこが画期的だったのか、ということです。ウィトゲンシュタイン自身が、〈私〉の存在の解消に苦しんでいて、それを文法の問題に帰して解決した(と思い込んだ=誤診)、というのはよくわかります。しかし、当時、ウィトゲンシュタイン以外は誰もそんな問題に悩んでいないわけですよね?。それなのに、その解決の方だけ画期的と評価された理由がわからないのです。それとも、当時の哲学界で、「〈私〉の存在の解消」が大きな問題だったのでしょうか。それとも、画期的と評価しているのは永井先生だけなのでしょうか。おそらくは、講義で「フレーゲ云々」とおっしゃっていたことと関連するのではないかと思いますが、可能な範囲でご説明いただければ幸甚です(当方、哲学(史)に関してはまったくの素人です)。

永井:厳密に言いますと、ウィトゲンシュタインが〈私〉の存在を文法の問題に帰して解決したというのは私の解釈です。多くの哲学者が認めているのは、ウィトゲンシュタインが意識の私秘性の問題を文法の問題に帰して解決したということです。これが画期的と考えられたのは、フレーゲの概念と表象の区別を「意識」概念にまで拡張して「表象」の側を消したからだ、というのも半ば私の解釈です(これはほかにもそう解釈している人がいるかもしれませんが)。しかし、一般的に言えば、誰もそんな問題に悩んでいない問題を画期的な仕方で解決して評価されるということはありえますね。分析哲学系の人は問題よりも議論の切れ味のほうを評価対象としますから。

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