質問(22/7/22講義)②

※8月5日、質問と応答を追記しました

真彦
第10段落の註***について。
 なぜ、「なぜか形式的にそれと同じあり方をしているとされることになる《私》たち」に対応するものは、A変化であって、A事実の概念化・一般化した、いわば《A事実》つまり《現在》ではないのか?多くの他の箇所でも、同様の使われ方がされているが、A変化を対応させる意義、逆に言えば、《A事実》=《現在》を対応させないことにどういう意義があるのか、教えていただきたく。

永井
《私》が〈私〉の概念化によって成立するのと同様に、《今》は〈今〉の概念化によって成立するからです。

真彦:(永井の応答に反応して)
私の質問したかったのは(この応答に関連させていうと)、「だからこそ、《私》にあたるのは、時間論用語でいうと、《今》(=《A事実》)であって、「A変化」としてしまったら不正確になるのではないか」ということです。
第二回に関する質問の中で、以下のことが確認されていました。
【・・・〈私〉に対し、それを概念化・一般化したものとして《私》を対置するのに対応して、端的なA事実(すなわち〈現在〉)に対し、それを概念化・一般化したものとしてA変化を対置することについて。
変化という不純物があるA変化は、端的なA事実に対置されるものとしては適切ではなく、対応関係は以下のようになるのではないか?
 〈私〉 ―――― 《私》
端的なA事実(=〈現在〉)――他時点にとってのA事実(=《現在》)
端的な時間経過 ――他時点における時間経過(=A変化)     】

それで、にもかかわらず、第10段落の註***や多くの他の箇所で、「〈私〉・《私》」に対し、「〈今〉(=A事実)・《今》」を対応させずに、「〈今〉(=A事実)・A変化」を対応させている、それはなぜか、というのがお聞きしたかったことです。

永井:それはもちろんです。その話も『世界の独在論的存在構造』の中でしていると思いますので、ご参照ください。この辺りでそういう語りあk多をしているのは、すでに説明したことを前提とした省略的な対応づけです。《》が変化と対応することはありません。

真彦
第13段落
「・・・第4回の段落5で導入したような図を使うことによって、である。図3で表現されるような世界のあり方を図2で表現されるような世界のあり方と対比して提示することによって、だ。これはつまり、なぜか現実に世界がそこから開けている唯一の原点が存在しているような世界(すなわち中心をもつ世界)と、そのようなそこから世界が開けている唯一の原点などはどこにも存在していない世界(すなわちのっぺりした世界)とを対比して、現状が前者であることを語っている。」とあるが、
図2・図3ともに、「そこから世界が開けている唯一の原点などはどこにも存在していない世界(すなわちのっぺりした世界)」ではないのでは?

永井:図3はなぜか現実に世界がそこから開けている唯一の原点が存在しているような世界(すなわち中心をもつ世界)を表す図です。

真彦:(永井の応答に反応して)
私が問題にしていたのは図2の方で、第8回第13段落本文では図2を、「そこから世界が開けている唯一の原点などはどこにも存在していない世界(すなわちのっぺりした世界)」にあたるものとしているように読めたので、「そうではなく、図2は第4回第5段落で〈私〉が世界の開けそのものであることを表現したものとして導入されていて、視覚の比喩でいえば視野を表している、よって唯一の原点のないのっぺりした世界を表す図ではないのではないか」ということを確認したかった次第です。(のっぺりした世界であるなら、例えば『〈私〉をめぐる対決』p215の図1のようでなければならないのではないか。)

永井
これはその通りです。第8回第13段落本文で、図2を「そこから世界が開けている唯一の原点などはどこにも存在していない世界(すなわちのっぺりした世界)」にあたるものとしているのは誤りです。

真彦
第17段落について
なぜか存在しているという驚きとなぜかこの人であるという驚きとは、端的に違っているように思える。「同じ驚き」ではなく、「一つの同じ事態」に対して不可避的に共に生じる(異なる)驚き、ということなのではないか?

永井:それはどちらでも同じです。どちらで表現しても哲学的な問題には影響を与えないので。

※関連リンク「哲学探究3 第8回」

いいなと思ったら応援しよう!