質問(22/6/3講義)②
真彦:
質問(22/6/3講義)①の最後に載せていただいた件について、確認&質問です。
(1)第2回第15段落について、頂いた応答を踏まえて、改めて次のように考えました。【この段落は、「動く現在が次々と新しい出来事の位置へと移動して行かなければならない」とか「現在という場に次々と新しい事態が生起してこなければならない」とかの表現中に言及されている「動く現在」とか「現在という場」とかを対象として、「それは《現在》であって〈現在〉ではない」と言っているのでなく、これらの表現全体は、「現在であるということがもつ独特の特性」(諸現在の特性)として語られており、したがって、この表現中にある「現在」は、そのような特性をもつような在り方をしている時のことを、つまり《現在》のことを意味しているのであって、〈現在〉のことを意味しているのではない、ということをいっている。(「・・・なければならない」といった表現の内にも、概念的性質であることが見てとれる。)】
誤りがあれば、ご指摘いただきたくお願いいたします。
(2)しかし、第2回第15段落の文脈を離れて、諸々の出来事の上を動いていく「動く現在」そのものを考えた場合、やはり、それに対応するのは《現在》であって、それとは別に、端的な現実の現在=〈現在〉があると理解しています。(間違っていたらご教示いただきたくお願いいたします。)そして、〈現在〉が(本質としては動く動かないに関係しないとしても)事実として動くのだとすれば、諸々の出来事の上を動いていくという動きとは異なる動きであるはずですが、それはどういう動きとして考えられるのでしょうか?(刹那滅の連続のようなものになる?)
永井:〈現在〉の動き方は《現在》の動き方とまったく同じです。おそらく(あくまでもおそらくですが)真彦さんは、ふたつの論点において混乱があるように思われます。
一つは、一般的に意味と指示の違いについて。たとえば「財布」はお金を入れるものという意味で、世界に存在する財布が全て茶色であってもそのことは「財布」の意味には含まれません。しかし、財布は(事実として)何色かと問われればすべて「茶色」であると言えます。これは財布の意味には含まれない指示のほうの問題です。意味と真理の違いともいえます。
もう一つは、ここでは扱われていない『哲学探究1』の第14章で扱われた問題です。現実的‐可能的の対比と動的‐静的の対比は輻輳します。この点については第14章の議論を熟読していただくほかはありません。