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質問

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山括弧塾生の皆さんからお寄せいただいたご質問に、永井均が答えました。
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記事一覧

質問(24/8/1講義)

真彦: ①第36段落 「・・・たとえ悪霊に欺かれて捏造されたものであっても、私が私を何かであ…

山括弧塾
1か月前

質問(24/7/25講義)

greatminer: 5章の23節から25節に関して質問させていただきます(聞き逃しであったり前後の文…

山括弧塾
2か月前

質問(24/7/18講義)※追記あり

真彦: ① 第5回 第33段落 「・・・「私はじつはこれ(、、)(経歴の記憶を指す)ではない」と…

山括弧塾
2か月前
1

質問(24/7/11講義)※追記あり

実篤: 「カントの誤診」第5回19段落についての質問です。 ここでは、独在性が効力を発揮する…

山括弧塾
2か月前

質問(24/7/4講義)

真彦: ①連載第5回/第8段落 「本当に、という問いが立てられるのは、身体との関係において、…

山括弧塾
2か月前
2

質問(24/1/18講義)

だいたい全部まなぶ: ある人がある対象を持続的に認識しているときは、その対象の数的同一性…

山括弧塾
8か月前
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質問(24/1/4講義)

スラベス: 段落24に「おそらくはこの遠い由来によって、段落7及び8で指摘された、「感性」や「直観」のもつ二つの意味もまた繋がっているだろう。」 とありますが、この「二つの意味」をうまく捉えることができません。ご教示いただけますと幸いです。 永井: 段落8の冒頭にあるように、感性と悟性の区別を個別的なことと一般的なことという(存在論的な)区別と見る場合と、感じられることと理解されることという(認識論的な)区別と見る場合があり、これが感性と悟性の二つの意味です。 スラベス:

質問(23/8/10講義)

リョウ: 「超越」の場面における言語の役割について。 黒本「アフターソート」(pp194-)を拝読…

山括弧塾
1年前
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質問(23/8/3講義②)

みや竹: 白本(復刊本)26頁の、「痛み」という言葉の意味の習得過程に関する議論についての…

山括弧塾
1年前
7

質問(23/8/3講義①)

五三郎: 世界体験をしている主体は〈私〉なのかそれとも「私」なのか、どちらなのでしょうか…

山括弧塾
1年前
1

質問(23/7/27講義)

リョウ:黒本p.11「われわれの世界構成のカテゴリカルな要求である」に関連して。 webでの連載…

山括弧塾
1年前
6

質問(23/7/20講義)

真彦:①黒本p.17、6行目~「哲学的」という表現について。「ここに飛躍が介在していることを…

山括弧塾
1年前
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質問(23/7/13講義②)

AD:昨年夏の講義でも同様の質問をしたのですが、いまだによくわからないので再度お聞きします…

山括弧塾
1年前
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質問(23/7/13講義①)

みや竹:アップデート本8頁3行目に「現にたとえば江戸時代には起こっていなかった」とありますが、それはなぜわかるのでしょうか。もし「なぜなら覚えていないから」という理由であれば、「忘れてしまっている」という可能性はないのでしょうか。(江戸時代に生きていたAさんが〈私〉であったという可能性はなぜあらかじめ排除されているのか、という質問です。) のちに「(記憶により成立する)持続する私」と「客観的世界の成立」の相補性が検討される際に「江戸時代にいた(今の私と記憶の繋がりの無い)〈私