質問(24/8/1講義)

真彦:
①第36段落 「・・・たとえ悪霊に欺かれて捏造されたものであっても、私が私を何かであると思っていさえすれば、私は必然的にその何かである(、、、)、ともいえる(地点が必ず存在する)のである。「がある」ことを超えて「である」ことにかんしても、疑いえなさはある。これがデカルトに対するカントの小さな、しかし決定的な補足であった。それがなければ一瞬前とさえ繋がるということができないからである。」について。
「私が私を何かであると思っていさえすれば、私は必然的にその何かである(、、、)、ともいえる」の「何か」である「記憶内容」は、「経歴の記憶」、たとえば「ラフレーシュ学院に通っていた」といったことを含みうると思いますが、そうだとすると、「ラフレーシュ学院に通っていた」という類のことの疑いえなさがなければ一瞬前とさえ繋がるということができないということになりえますが、一瞬前と繋がるためにどうしても必要なのは、いまここの最低限の記憶的持続だけであって、経歴やエピソード的な来歴の疑いえなさはなくても一瞬前と繋がることは可能なのではないでしょうか?
(記憶喪失で、何一つ自分の経歴に関する確実な記憶がない状態になっても、いまここにおける持続的な意識をもつこと、ただほんの一瞬間程度、思ったり言ったりしうるような、あるいはそうでなくとも動きのあるものを動いているとして見ることが出来るような超短期継続的意識をもつことは可能ではないかと思えます。)

永井:
「ラフレーシュ学院に通っていた」という類のことの疑いえなさがなければ一瞬前とさえ繋がるということができないなどということはありえません。話は逆で、一瞬前と繋がるということと「ラフレーシュ学院に通っていた」ということと繋がる(自分の体験として覚えている)ということは同じ種類のことです。
記憶喪失で、何一つ自分の経歴に関する確実な記憶がない状態になっても、いまここにおける持続的な意識をもつこと、ただほんの一瞬間程度、思ったり言ったりしうるような、あるいはそうでなくとも動きのあるものを動いているとして見ることが出来るような超短期継続的意識をもつことはもちろん可能です。あたりまえです。

真彦:
②第45段落 註*
「関係のカテゴリーは、量のそれ(数を数えること)と並んで、世界の時間的持続という自明とさえいえる事実が、その世界のもつ偶然的事実に基づいている、ということを理解するには、きわめて重要であるといえる。」について。
類型的継起連関や区切れた同型のものが複数個存在することが、従って因果性や数を数えるということが、偶然的事実に基づいているということは分かるが、いかにしてそのことが、「世界の時間的持続が偶然的事実に基づいている」ということに繋がるのか。
世界の時間的持続が、類型的継起連関や区切れた同型のものが複数個存在すること、因果性や数を数えるということによってはじめて可能になるというのであれば、世界の時間的持続は偶然的事実に基づいているということになると思いますが、しかし、因果性や数を数えるということは世界の時間的継続を認識するための「助け」にはなるが、絶対に必要とまではいかないのではないか。また「認識するため」には助けになるが、世界の時間的継続そのものの生起・存在にとっては無関係ではあるまいか?(因果性などがなくても世界の時間的継続そのものがあることはできるのではないか)

永井:
これはいわば、第一次内包などなくても第0次内包は存在可能であろうという話で、今となっては存在可能と考えられるでしょう。すでにいわゆる「逆襲」が起こっていますから。

真彦:
③第47段落
「たとえば、ある一つの対象がすべての時間に存在しつづけているような世界であっても、あるいはいかなる類型的継起もまったく存在しない、混沌とした、流体から成る世界であっても、そうであると捉えられうる以上、そうでない可能性はあったし、あるし、あらざるをえない。それは、捉える(begreifen=概念的に把握する)ということの本質に由来することだからである」について。
しかし、そうだとすると、たとえば、「究極的には絶対に誤りえない水準の記憶がある」といったことでも、そう捉えられた以上、「いかなる記憶も誤りでありうるのであって、誤りえない水準の記憶といったものはない」という在り方が成立している可能性もあった、と考えられることになるのではないか。

永井:
いかなる記憶も誤りでありうることにはならず、記憶概念が成立しないということになるでしょう。


※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第5回、第6回


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