なんでも出来る人のできないこと@傾聴
たまたま傾聴をする機会を与えられて5年が経つ。
傾聴とは、他者の話をひたすら聴くことである。
なんのこっちゃ、でしょ?
私も、なんのこっちゃ、と思ったからそれを学習し経験し、それがなんなのかを、識りたいと思ったわけだ。
それ以来、傾聴の技術を研鑽するため続けてきた。
研修を受け、本を読み、仲間と議論し高めあい、聴いて聴いて聴きまくった。
聴いたことを元に、さらに議論し意見を闘わせた。
5年も経つと、ふと思う。
オレ何やってんだ?って。
ここでの傾聴は他者の話しってのも、ほぼ苦しかったり辛かったりする話で、それをひたすら傾聴すればアホ見たいに消耗する。
仕事でもないのに、自分を削るのって変じゃね、マゾかよ、ってのが、普通の感覚だろう。
私にしても、そんな感覚が生まれてきた。
それが、今日これまでと違う感覚で無性に傾聴したくなったのは、やはり弟の死があると思う。
遺族から聞いた弟の、急死するまえの、眠れなかった日々、と言うのが引っかかっているのだろう。
お前に、話しなんか聞いてもらうつもりはないよ、と、きっと弟は言うだろう。
なんでも知っている(つもり)で、なんでも出来ると自負している弟が、他者に弱みなんか見せるとは思えない。プライドなのだ。
兎に角、急に他者の辛い話しを聴きたくなった。
聴いて受け止めたくなった。
今までのように、傾聴が何かを識るのが目的でなく、傾聴本来の力を信じて実行したくなったのだ。
5年も、1000件以上も聴いていれば、傾聴の力の実感することは多々ある。
弟に出来なかったことを、身も知らずの他者にすることで何かを埋めようとしているのかもしれない。
これは、罪滅ぼしか?
やれてなかったと言う深層心理か?
いずれにしろ、これでやっと本来の純粋な傾聴の目的になったんだろう。
鬱に落ちてしまった方の話、と言うか訴えも何度も聴いたことがある。鬱によって以前できていたことが出来なくなった、何も出来ないという、その苦しみを聴く。
精神科医でなければカウンセラーでもない、ただの傾聴士である。解決策など持つわけもない。
泣きながら力なく訴えられようと、どうしようもない。
ただひたすら聴き受け止めるだけなのだ。
勿論、受け止めるだけで傾聴の効用として、話し手に何かしらの効果はあると思ってはいるけど、今回はひたすら聴くだけでは、終わらなかった。
仮初でも、少しだけでも、訴える人にホッとして欲しかった。
そんな言い訳をしながら傾聴ではタブーである、意見を発してしまったわけだ。
あなたは、以前出来てたことが何も出来なくなったと言うが、以前出来なかったことが今はできてる。
以前は、人前で泣くことが出来なかったのに今は出来ている。
以前は、人に弱味を話せなかったのに今は自ら話すことが出来ている。
以前、人目を意識することができなかったのに、今は出来ている。
これらは、以前の出来ていたあなたには、出来なかったんじゃないですか?
プライド高き弟を思い出したわけじゃない。
私自身が出来ないことを引っ張りだしてきただけのことである。
私だけじゃない。多くの自分でなんでも出来ると自負している社会人が出来ないことが、病になって初めてできていることは、あるのではないか?
この話し手が訴える、以前出来ていた、の中に弱音を吐くはなかっただろう。人前で泣くはなかっただろう。
それが今は出来ているのだ。
すごいではないか!
安冨歩が、著作「生きる技法」のなかで、人は助けを乞うことができて初めて自立している、と言っていたのを思いだす。
今回気付かされた、病でもそうだし他の苦境でもそうだと思う。この社会からはみ出たところで得るものは必ずあるのだ。