【オバちゃんの読書感想文】 「楽園のカンヴァス」 原田マハ 著
前回原田マハの「風神雷神」について書いたら、数年前に読んだ「楽園のカンヴァス」をまた読みたくなった。原田マハの世界に浸りたくなった。小説は危険。一度沼にハマると他のことが手につかなくなる。ここ数週間は優先順位が最優先のことを除いて本ばかり読んでいた。優先順位低いことでもやらなければならないこと、あるのに。。。
私には絵心や音楽の才能はないので、美術館や音楽会でその世界にどっぷりつかり、余韻を楽しみすぎて他のことが疎かになるという危険はない。でも、本の世界は危険だ。お風呂に浸かりすぎると指がシワシワになってしまうが、本の世界に浸りすぎると頭がフワフワになってしまう。
今回もその世界に浸ってしまった。フワフワの頭で感想文を書いてみよう。
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「風神雷神」でも感じたことだが、原田マハは手品師なんじゃないだろうか。事実と想像や創作をうまく組み合わせ、継ぎ目がわからないようにして、それらを一流の作品として構成させる技を手品といわないのなら、職人とでも言うべきだろうか。
ルソーの「夢」がMoMAにあるのは事実。「夢をみた」という作品があるという事実はない。つまり、想像か創作(あるいは、噂か)。ルソーとピカソに接点があったというのは事実。ピカソがルソーを評価していたのも事実らしい。ヤドヴィガという女性が存在したこともどうやら事実。でも、ヤドヴィガはルソーの晩年ではなく若い頃に出会った女性らしいので、本書で書かれているルソーとヤドヴィガの関係はおそらく創作。さらには、スイスのバーゼル近郊にバイエラー財団という文化団体も本当にあるらしい。ただ、この財団を創設したバイエラー夫妻には子供がいなかったらしいし、このバイエラーさんは1910年には生まれてもいなかった。
創作がうまく事実と絡み合い、どっちがどっちでも良いような感じすらする。「夢をみた」が本当にあってもおかしくないし、いつか「夢」に贋作疑惑が持ち上がったり、ピカソの絵の上に描かれているという話が浮上したところで驚かない(いや、驚くか)。
単なる小説の場合と違って現実が絡んでくる場合、本が本の世界から飛び出して来る感覚がある。アンリ・ルソーという人について本書とは離れたところで実際の情報を得ることができるし、彼の描いた「夢」という絵画の写真も見ることができる。MoMAに行けば本物ですら見られる。それらの事実が小説の中に入ってくることで、小説がより現実味を帯びてきて、「夢をみた」も本当に写真で見ているような気がしてくるから面白い。また、小説の中にこのような数多くの事実が絡んでくることによって、もし、現実の世界でこの小説に出てきた事実の内容と触れ合った時(例えばMoMAで本物の「夢」を見た時)に、本書で読んだ内容やその時感じた感覚、頭で思い浮かべた風景なんかを思い出すかもしれないなぁと思わせる。本を超えて世界が広がる感じだ。
「風神雷神」と「楽園のカンヴァス」に共通することだが、彼女の小説は時空を超える。それも1週間とか5年とかではなく、数十年、数百年の時空を超え、さらには国境ですら超えてしまう。時間と空間を手のひらで弄んでいるようなそんな感覚を覚える。
でも、彼女の作品は時間と空間を弄んだり、事実と想像を織り交ぜたりするものばかりではなく、他にも彼女の本で読んだ「異邦人(いりびと)」や「独立記念日」などは全く異なった作風だった。もし私が1つ成功体験を得たらそれに寄ってしまいそうで、ちょっと違ったスタイルにすることに恐怖を感じてしまうかもしれない。が、彼女はそんなことを見せることなく全く違う表情を見せる作品を書き続ける。
筆の手品師に出会った気分をフワフワの頭で感じている。