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私だけの地図ーミニ読書感想『あらゆることは今起こる』(柴崎友香さん)

柴崎友香さんの『あらゆることは今起こる』(医学書院、シリーズケアをひらく、2024年5月15日初版発行)が面白かったです。大人になり、ADHDの診断を受けた柴崎さん。その経験や、診断を通じて振り返った過去を綴ったエッセイです。エッセイなのだけど、柴崎さんの小説のような、独特のふわふわとした手触りがある。発達障害に興味がなくても作品として没頭できると思います。

著者は、本書の話をいわゆるギフテッドの物語に回収されたくないと語っていて、それがすごく、発達障害児を育てる親としてはありがたいというか、頼もしい。著者は小説家なだけに、何を語っても「だから小説家になれた」という話にみなされがちだと思う。けど、たいていの人は特別な才能より並の才能を持つものだし、また逆の観点からは、著者が小説家になれたのは決してADHDだからではない。それは著者の努力や人間性を型にはめる見方。

本書はただただ、著者が頭の中と心の中を開示してくれるその言葉に、身を委ねるのが楽しい。そのリズムや温度に。

たとえば、小学生の時にコクトーのこんな詩に出会い、言葉の魅力に出会ったというエピソード。

シャボン玉の中へは
庭は這入れません
周囲をくるくる廻っています

『あらゆることは今起こる』p113

 堀口大學訳のその短く簡素な言葉を読んだとき、私の世界はひっくりかえった。
 私は今までシャボン玉の中に庭が入れるかどうか、考えたことがなかった!
 シャボン玉じゃなくて庭のほうが回ることができるんや!
 言葉でこんなことができるん、めちゃめちゃかっこいい!
 私は担任の先生にこの詩がすごいと話し続け、このかっこいいことを自分もやりたいと思って今に至る。つまりこの三行から得たエネルギーが、四十年経っても枯れないままなのだ。

『あらゆることは今起こる』p113

面白いなあ、と思う。私はこの詩を読んでひっくり返りはしないし、何を言ってるんだろうと思いました。でも、著者はめちゃめちゃかっこいい!と思い、しかもそのエネルギーが、同じように言葉を操る小説に向かう原動力だと言う。

何に魅力を感じるか。何に感動するか。反対に、何に困るか、苦しむか。そういう内的世界・内的感覚はどうしても、他人には分からない。

著者は、特性(発達障害の感覚や困りごと)を地図に例える。そこから広がる言葉の豊かさに舌を巻く。印象に残りました。

 地図のたとえを書いたけれど(二十三頁)、実際に山を歩くとなると、それはもう複雑で豊穣な世界に足を踏み入れることだ。葉っぱ一枚でも、この葉脈どうなってるん?  とあまりの複雑で精緻な成り立ちにめまいがしてしまうほどで、それが無限といっていいほどに、目の前の世界にはある。
 言葉で語れることはほんのわずかな、さらにその欠片にすぎない。欠片にすぎないことを書いて、どうにか全体を想像しようとするけれど、全然追いつかない。
 もともと持っている特性だけでなく、同じ山でも雪が積もっていれば難易度が上がるように積もってきた経験によってその山の歩き方はずいぶんと変わる。

『あらゆることは今起こる』p 283-284

地図は地図で、実際にそこを歩いてみると、葉っぱの一枚にも見惚れてしまう。それはADHDの多動性の、一つの面白い例えだなと思います。

そして、当事者はその地図の上を歩くわけだけど、見た目上、似たような地図でも歩き心地は違う。それが生き方や経験ということ。たしかになと思う。

それが言葉にできないことを深く理解して、おそれを持って、でも語って(書いて)くれている。それが、そんな慎重で優し語りが、本書の魅力です。

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柴崎友香さんの作品では、今年文庫化された『百年と一日』もおすすめです。

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