「可能世界」を束ねた傑作連作短編集ーミニ読書感想『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲さん)
小川哲さんの連作短編集『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社、2023年10月20日)が超絶に面白かったです。この作品についてずっと語っていたくなる。ここから書くことは全て仮説で、間違っているかもしれないけれど、それでも語りたいので書き残します。
本書は、「現代の承認欲求を描いた」という触れ込みをネットで見たことがあります。たしかに。メインテーマは、SNSの炎上や、才能、あるいは本物と偽物かと思います。主人公が「小川」「大学院時代にデビュー」「二作目で山本周五郎賞」と、明らかに著者小川哲さん本人であることもユニークです。
でも自分が惹かれてしまったのはそこではなくて、この連作短編集の謎というか、仕掛けというか、遊び心の部分でした。あるいは、大いなる虚構。
どういうことか。先述の通り、本作は著者に似た小説家が主人公で、収録6作品とも同じ主人公、似たような顔ぶれの登場人物、似たような舞台設定で展開される。基本的には、小説家の周りで起きる出来事と、その思索で構成されます。
でも、ところどころ違和感があるのです。
たとえば、巻頭の『プロローグ』という作品は、主人公の小説家が2010年、避けてきた就活にチャレンジして、出版社のエントリーシートを書くつもりが、そこから小説を書くことになったというあらすじです。その転機には「美梨」という恋人が関わる。ある種の幼なじみで、院に進んだ主人公とは異なり伊藤忠で働いています。
ふむふむと読み進めて、次の『三月十日』は、連想する人もいるように2011年3月11日の1日前をテーマにした話。3.11のいちにちのことはよく覚えているのに、その前日は思い出せないよね、という。
で、主人公は3月11日に何をしていたか。『三月十日』では、「茜」という、当時はまだ付き合っていないけれど気になっていた女性と食事をしたというのです。
ん?
逆に、『三月十日』の主人公は、『プロローグ』の美梨のことを全く思い出さない。もちろん、2010年に付き合っていた大切な恋人と、2011年3月も付き合ってる保証もないし、思い出さなくてもまあそれはいいです。でも、同じく美梨を知っているであろう、高校の同級生も誰も話題にしない。
そして、この茜も、次の作品からは全く登場しない。
違和感は他にもあります。表題作の『君が手にするはずだった黄金について』は、「片桐」といういけすかない級友がデイトレーダー兼インフルエンサーとして成り上がり、そして躓く話。この片桐について次の『偽物』という作品でも主人公や級友が思い出すのですが、片桐が炎上した話は、なぜかすっぽりと抜けている。
連作短編集のはずなのに、それぞれの作品は少しずつ「何か」がずれているのです。それはなんというか、世界線というべきものが。
これは、意図的ではないかと思いました。理由は、巻頭の『プロローグ』にある主人公のこんなセリフです。
哲学者のクリプキが唱えた「可能世界」。アリストテレスがアレクサンダー大王の教師ではなかった世界。
この短編集の各作品は、同じような設定で、でもそれぞれ微妙に異なる「可能世界」を描いているのではないか?
この疑いは、最後の『受賞エッセイ』で出てきたこの文章を読んで、確信が強くなりました。
全てを掬いとることのできない可能性。著者は、その広大さを、似たようで異なる可能世界を描くことで、示したのではないか。
あの時こうしていれば、と思うことは無数にあります。あるいは、「もしこうでなかったら」というような。小説はそうした分岐を可能にする。あり得たかもしれない未来を空想できる。それに刺激を受けて、現実の見方も変わりうる。
著者は、偽の歴史、偽史小説の巧者です。『ゲームの王国』ではカンボジア内戦を、『地図と拳』では満州の歴史を、巧みに改変して物語にした。その力を、この連作短編集でも発揮したのかもしれない。
あり得たかもしれない世界。あり得たかもしれない自分。でも、他でもない、ここにいる私。可能世界の物語に触れた後、なぜかいまを確かに生きていこうという気力が湧いてくるのは、不思議です。