子どもは練習中ーミニ読書感想『ヘルシンキ 生活の練習』(朴沙羅さん)
朴沙羅さんのエッセイ『ヘルシンキ 生活の練習』(ちくま文庫、2024年7月10日初版発行)を面白く読みました。フィンランド・ヘルシンキでの子育て期。北欧礼賛でも、逆に「実は北欧はダメ」でもない、淡々と現地の生活をレポートしてくれる。そしてタイトルの「生活の練習」という発想を伝えてくれる素敵な本でした。
生活の練習とはなにか。それは、著者の子どもたちが通う保育施設でレクチャーされた下記のメッセージから来ている。
その保育園では、何事も「スキル」として捉える。たとえば、友達にいじわるは嫌だと伝えること。アートを楽しむこともスキル。つまり、才能だとか、性格だとか、気質だとかではない。スキルだから、練習ができる。
そして、子どもは何でも練習中である。できないことがあっても、それは欠陥ではない。「悪いこと」ではない。足りないスキルを練習中であるという、ただそれだけのこと。
このあとに、実際著者の子ども(=クマ)に対する先生のコメントが出てきます。
とっても素敵だ。美を鑑賞する力でさえ、練習して養えるという視点。そしてその視点に立てば、子どもが葉っぱを太陽に透かせるという何気ない遊びも、懸命な練習にみえてくること。
あらゆることはスキルであり、練習可能である。これは、発達障害のある我が子が通う療育園の先生も、よく言っているなと思い返しました。
たとえば、我が子はコミュニケーションが総じて苦手で、お友達のおもちゃを無言で取ってしまったりする。だから先生は「ちょうだい」と言うことを根気強く教えてくれている。あえて、子どもが好きな本を戸棚に置くシュチュエーションをつくって、子どもに「絵本ちょうだい」と言わせてくれている。
コミュニケーションを能力と捉えると、我が子は「無能力」になってしまう。そうすると当然親としては悲しいし、無能力であることを諦めてしまうことにつながる。でも、先生はスキルだと考えている。だから練習すれば、伝えかたはうまくなる。
実際そうなのです。まだたどたどしいけれど、少しずつ「ちょうだい」が板についてきている。
スキルと捉えると、大人も楽になる。だって、苦手なこともまだ、練習できるから。人は一生練習できる。そう考えれば、生きるのも楽しくなります。