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私はまなざされているーミニ読書感想『アイヌがまなざす』(石原真衣さん・村上靖彦さん)
石原真衣さん・村上靖彦さんの『アイヌがまなざす』(岩波書店、2024年6月13日初版発行)が胸に残りました。それは感動というより、痛み。この本を手に取る人がアイヌ民族にルーツを持たない「和人」であれば、和人がなしてきた差別や偏見、不正義を激しく糾弾される。だから痛い。読んでいて苦しい。読後に「どうしてここまで言われないといけないのだろう」という気持ちさえ覚える。
だからこそ、本書は読む価値がある。
タイトルはアイヌ「を」まなざすではない。アイヌ「が」まなざしている。まなざされているのは和人で、あえていえば「私たち」である。数で言えば、読者の大多数は和人でしょうから。
たとえば、妻が「私はアイヌなんです」と日常会話で発言し「うちはそういうのじゃない」と和人の夫が否定し、この一言で離婚した夫婦がいる。その妻の弟は、自分がアイヌに関連したアクションを起こしたことが姉の発言を誘発したのではないかと責める。
アイヌ民族の多くは、和人らと結婚して「血を薄め」、民族性を隠そうとする人もいる。それ自体が、和人がアイヌに向ける「差別的なまなざし」の表れであるし、「アイヌではない」という姿勢を取らされる一方で差別がなくならない、いびつな状況をも示している。
本書が読んでいて痛いのは「あなたはこの差別になぜ声をあげないのか」と問い掛けてくるから。なぜ解消に向けてアプローチしてこなかったのか。なぜ傍観者でいたのか。その意味で、読者はまなざされている。
この「まなざされる」体験こそが重要であるという著者らの主張が、唯一の救いと言えるかもしれない。引用です。
本書を読み通した読者は、アイヌを取り巻く愚行や偽善や消費をまなざす力を身につけているだろう。そしてアイヌのまなざしも感じているだろう。一度発生したまなざしはもう二度と消えることはない。まなざされているという緊張感こそが、一方的に誰かを消費したり、規定したり、従わせたり、まなざしたりすることを自省させる唯一の一歩ではなかろうか。
「本書を手に取った人は差別する側じゃないから、大丈夫だよ!」と言ってくれてるわけでない。そうではなくて、「あなたはまなざされてることを知りましたね」と言っている。まなざされている人は、その視線の痛さを知る。他人に無遠慮に視線を送る怖さを知る。
なぜ、こんな記録を書こうと思ったか。読んだ後も苦しさが残るのに、なぜ人に薦めるようなことをするのか。それはこの「痛みを受け取る」「声を受け取る」ことは、きっとやっていかなきゃいけないと感じたからでした。
私が階段を上り下りする特権性も、選挙に行くときに当たり前に投票できることの特権性も、好きな人について恋バナできる特権性も、そしてそもそも大学へ、ましてや大学院へ進学できる特権性も、私はその特権性から疎外されている人びとに教えてもらった。私はその人びとが経験する疎外において、いくばくかの責任を負っている。ただし、特権性へのこのような気づきは、疎外されている人が訴えるという不当なアンペイドワークによってしか成しえない。さらに、訴えがあったとしても、特権を持つ人らがそこから学び、声を受け取るという相互横断的行為がなければ、疎外されている人による訴えは、「また騒いでいる」と捉えられ、さらに疎外されてしまう。
相互横断的。まなざされていることを意識しても、無視しても、和人の手にある特権は変わらない。私の特権は依然、維持されている。せめて、まずは、声を受け取ることから始めなくてはならない。
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