企みを味わい楽しむーミニ読書感想「会話を哲学する」(三木那由他さん)
文学者、三木那由他さんの「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」(光文社新書)が面白かった。漫画や小説などさまざまなフィクションに登場する会話を吟味し、そこに隠された「企み」を味わう。企みを暴くのではない。企みの豊穣さを楽しむ方法を教えてくれる。本書を読んだ後は言葉の豊かさをより感じられるようになる。
本書は、会話の複雑さを解きほぐしてくれる本だと言える。
副題の通り、著者は会話を「コミニュケーション」と「マニピュレーション」に分ける。ざっくりいえば、コミュニケーションは「約束事の設定」であり、約束事を誤解なく共有するための情報交換。一方マニピュレーションは、会話を通じて相手の心理・行動に何かしらの働き掛けを行うことを指す。
しかしながら、会話というのはこの二つの要素「だけでは語り尽くせないこと」が溢れている。二つの概念に分けようとするからこそ、割り切れない部分が出てきて面白い。
たとえば著者は「同級生」という漫画を取り上げ、「相手が自分のことを好きだと分かっているのに、『好き』という言葉を最後まで言わせようとする」行為の不思議を考える。情報を共有し約束事をつくるコミュニケーションならば、相手の気持ちが分かればそれで良いはずなのに、なぜ物足りないのか?
あるいは、「死者との会話」もそうだ。亡くなった人と約束を結びようはないし、天国にいる人の気持ちを操作することもできない。死者との会話はコミュニケーションなのか、マニピュレーションなのか。
引用した部分で触れられるように、コミュニケーションとしては失敗してもマニピュレーションになっていることもあるし、「裏腹」にマニピュレーションしようとする「不誠実」な試みもある。でも、その複雑なありようこそ会話の、人間の魅力なのだと本書は気付かせてくれる。
著者はコミュニケーションとマニピュレーションに腑分けし、物事を明快化させようとしているわけではない。むしろ、分けきれない豊かさを読者に提示するためのツールとして、この二つの概念を使う。複雑で豊かな世界を、複雑で豊かなまま受け止めようとする著者の誠実な姿勢が感じられた。
本書で取り上げられた会話はフィクション作品のものだけれど、ノンフィクションにも応用できそうだと思う。たとえば先日読んだ「嫌われた監督」(鈴木忠平さん、文藝春秋)にこんな台詞があった。
中日ドラゴンズの「嫌われた監督」落合博満さんにこう言われた選手は、一年以上その意味するところに悩み続けた。ボールを目で追うのは普通ではないのか?
選手を一年も悩ませる言葉はコミュニケーションとしては成立してないが、この言葉によって選手のプレーが変わったという意味ではマニピュレーションは(じっくりとだが)成功していた。むしろ、マニピュレーションとしても失敗する可能性も高いからこそ、選手の心に深く根付いたのかもしれない。
この会話の裏にはどんな人間的な「企み」が隠されているのか?それを想像すると、本の中の一つの言葉がずっと豊かになりそうだ。
つながる本
臨床心理士、東畑開人さんの「なんでも見つかる夜に、こころだけ見つからない」(新潮社)も、さまざまな悩みを「補助線を引いて、二つの概念に分ける」という試みで整理していきます。東畑さんもまた、分けられない複雑さを慈しむ書き手でした。
感想はこちらに書きました。