分ける理解・つなぐ理解ーミニ読書感想『野生のしっそう』(猪瀬浩平さん)
猪瀬浩平さんの『野生のしっそう』(ミシマ社、2023年11月20日初版発行)が学びになりました。人類学者が、自閉症と知的障害がある兄と「ともに」思索する本。失踪でも、疾走でもなく、しっそうとタイトルにするような、独特の「あわい(間)」を大切にする本でした。
中心的なテーマになっているのは、著者のお兄さんが突然、家を飛び出してどこかにいってしまうこと。それは客観的に言えば、障害者の失踪である。でも著者はそうではなくて、それはお兄さんが走り出すこと、この世界を駆けていくこと、つまり疾走でもあるのだと解釈する。
こんな風に、捉え方を変える。ずらしてみる。それが本書から掬い取れる学びです。
印象に残っているのは、お兄さんが特性として、(定型発達者から見たとき)突然、大きな声を出してしまうことについての、ある人物の解釈です。
これは、なぜ大声を出すのか?という問いに、「お兄さんには障害があるから」と答えることとは異なる。もしも理由に障害を持ち出すと、それは物事を説明してはいるけれど、ある種の分断の様相を帯びる。障がいがあるから、「仕方ないんだ」という。自分とお兄さんは違うのだ、と。
そうではなくてこの人(オーナー)は、かつて自分がそうだったように「自分の声を聞いて安心したいんだ」と捉える。そう解釈してみる。この答え方は、お兄さんとオーナーを、障害・定型(健常)の区切りを超えて、結び付けることを可能にする。
もちろんオーナーが断っているように、本当にお兄さんが自分の声を聞いて安心したいのかは、分からない。分からないけれど、この考え方は、お兄さんとオーナーを「別物」にはしない、ほのかな優しさを帯びる。おせっかいというか、ありがた迷惑かもしれないけれど。
これは、以前読んだ専門医の本に書かれた「仮の理解」に通じる話だなと思いました。
仮の理解は、正解ではない。正確でもない。でも、仮の理解を手にした私たちは、なかなか通じ合えない相手と、それでも踏みとどまって関わるための手がかりを得る。
障害と生きるということは、「否定形の連続」だとも言えます。断絶、分断の連続。それは、この世に生きる大多数が健常で定型である以上、避けることが困難な抑圧です。そのことについても本書は、端々で記述している。
障害者やその家族は、自らを抑圧し、自らを隔離していってしまう。どうしても。
でも、オーナーが示したような、異なるありようがある。それは、しっそうを失踪で片付けないような、ある種の往生際の悪さの中に宿る。